根源的差異

http://o-to.at.webry.info/200804/article_1.html
オトノチカラというウェブ日記。ここに、大槻ケンヂの「そして人生は続く」についての興味深い示唆があった。
リンク先に歌詞が引用されているので、まずは読んでもらいたい。そして、その後に続く文章も。

読んでいただけただろうか?

さて、われわれはここで一つの思考実験をすることになる。
リンク先にはこうあった。

“これの女優を「折笠愛」「国府田マリ子」に変えてみてごらん!”


ここに、「木之本桜」や「しおり&さおり」を代入したらどうなるだろうか?


これは、われわれが二次元というものをどのように受け止めているかという、認識の様相の問題である。
将来われわれが老いたとき、国府田マリ子と老人ホームで出会うことと、木之元桜と老人ホームで出会うこととを想定したときの、その可能性の決定的な差異。ここにおいて、三次元と二次元との断絶をまざまざと浮き彫りにすることができる。
われわれと二次元とを隔てているのはいったい何か、その答えのひとつがここで与えられる。つまり、時間性であり、時間性に基づく主体性だ(ハイデガー)。
べびプリ日記におけるあさひの「0歳の誕生日」とは、けっして単なる一発ネタに留まるようなものではない。何故ならば、ここにおいて、物語の中で流れる時間、テクストの時間とは何か、という問題があまりにもあからさまに前面に押し出されているからだ。
流れる時間において我と汝が出会うということの意味が、二次元と三次元とでは決定的に違うのだ。


こうした認識に至ったとき、ようやく、われわれはキャラクターの存在論を開始することができるだろう。

天使の形象

二次元メディアに登場する天使、羽根の生えた人間について一時期よく考えていた。
ぴたテン、AIR、灰羽連盟、その他諸々。
天使のイメージが一体いつ、どこから現代日本に来たのかはここでは問わない。
重要なのは、彼女たちが羽根をもっているということだ。
羽根の生えた少女という形象。
彼女たちは翼の形象を人体に結びつけることによって、イメージの増幅を果たしている。
人の身で空を飛ぼうというのだ。
しかし、現実の人間が空を飛ぶためには、プロペラやジェットエンジンで、盛大に化石燃料を燃やして二酸化炭素を排出しながら、揚力を得なければならない。
AIRのあの少女のように、空のむこうにずっと留まっていようと思ったら、高度を落とすことなく地球をまわりつづける衛星軌道高度に到達できるだけの燃料が必要だろう。それがひと昔前だったら、ヒドラジンなどの有毒な化学物質を燃料に使い、自国の環境を破壊しなければならなかった(現在でもロシアや中国ではそうした有害燃料が使われている)。空を飛ぶという行為、重力を止揚するということにはそれだけの現実的な重みがある。
だが、彼女たちは軽々と空を飛ぶ。それがイメージの力なのだ。
その羽根で、神奈は、美紗は、宙を舞う。あまりにも簡単に。
きれいな真っ白い翼なんて、フィクションでしかないのに。いや、フィクションでしかないからこそ、彼女たちは重力を止揚しえているのかもしれない。
現実のあらゆる重力めいた束縛から逃れて、形象だけの、イメージの世界に漂う彼女たち。

「……ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。」(ベンヤミン『歴史の概念について』)

翼を閉じることができないこと。それがきっと彼女たちの原罪だ。

昔のmixi日記からコピペ

P2P技術時代の〜は今見返すとyoutubeやニコ動のほうが適切かもしれない。いずれにせよコンテンツの情報化によってその流通・運用コストがきわめて低くなることによる内的・外的な性質の変化のありようを解き明かしたい。
以下2007年01月25日付のmixi日記からコピペ。

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はてなのシステムが醜悪なのはその外部性の否定にある。はてなアンテナ被登録数、被はてなブックマーク数、それらは全てはてな内部からの参照だけを表示している。そのような中で、他のウェブシステムと同じように外に開かれているのは、唯一、古典的な直リンクだけだとすら言えてしまうだろう。
とりわけ、はてなブックマーク被登録数の表示は、個々のブックマークの固有性を漂白し単純な頭数かぞえに還元する。つまりは言説性をほとんど否定してしまうのだ。
振り返れば、俺ニュースが秀逸だったのは、ただ管理者の主観によってのみ収集され、それらを列挙するだけで、システムによって整理されることが *決して* ないというアナログな仕組みそのものにあったのだろう。つまり、俺ニュとはてブの設計思想は、そのパッと見の似通いにもかかわらず、ほぼ対極に位置しているのだ。

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大学に受かったら、「P2P技術時代の芸術作品」という題の論文を書きたいと思っている。
今のところ、ファイル共有ネットワークに対して言うべき言葉は、次の一文で必要十分だし、またこれ以上のことを言うこともできない。つまり――
「完全にデジタルデータ化され共有された芸術作品は、その交換価値を究極的に奪い去られる。」

早く資本論を読まないと。

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ここ数年の間、俺の頭を支配してやまない疑問がある。「一人の人間が一生のあいだに読める文章の数は有限である」という命題だ。


あと、外部からアクセスできないインターネットという存在にも何となく違和感を感じますね。いい悪いというよりも、もったいないという感覚。
例えば、 mixi で書かれている日記は、インターネット上で十数年に渡って進化を続けてきた “あらゆる文章をインデックス化し重み付けて検索可能にするシステム”の外にあるわけです。
全ての人間が生産する文章量のトータルは変化しないため、 SNS 上の文章が増えることは即ちインターネット上の文章が減ることを意味します。もったいないなあ。
http://internet.kill.jp/d/200411.html#d28_t2



この見解は、そもそも一人の人間がインターネット上のすべての文章を閲覧することなどできないという単純な事実を見逃している。
また、ネットのあらゆる文章を「誰が」「どのように」インデックス化し重み付けているのか、という点にも思考を向けるべきだろう。
私見では、ネット上における広すぎる視界をある程度有意な範疇にまで縮小するための自動情報収集システムという点で、mixiのシステムはそこそこ高いレベルに位置している。マイミク日記や参加コミュニティによる情報(コミュニケーション的交通を含む)の取捨選択の効率は、おそらく通常思われているよりもずっと良い。

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全くのところ、わたくしが求めたのは自由などではありませんでした。求めたのは出口にすぎません。右であれ、左であれ、どこに向かってであれ。そのほかの要求は何一つなかったのです。たとえ出口が錯覚にすぎなかろうと、要求がささやかなのですから、見当違いもそれより大きいわけがない。突き進め、ひたすらに突き進め!
(フランツ・カフカ『学会への報告』)

朝倉さん日記(声優とか)

一人の声優について考えるには、全ての声優を知らなければならない、とはしばしば言われるところで、全ての声優、というのは無論誇張表現であるのだが、にしても三桁以上のオーダーで声優のモデルを脳内に保持していないのならば、声優に関しては沈黙するしかないのだ。
(『永遠の現在』所収「声優批評入門」より)


という名言を胸に刻みつつ、なお現状報告として書き留めておくのを許していただきたい。
まだ5,6人程度しか声優モデルを保持していないという無能にもかかわらず、朝倉さんとフェイ・イェンへの愛をまっとうするために俺は高みを目指す。
前置き終了。

true tearsと狼と香辛料を見たら両方とも名塚が出てた。
狼は小清水もいるのでシムーンモードだな。

俺の声優聞き込みにおける課題の一つに
「ハルヒの朝倉涼子における正しいキャスティングを探す」
というのがある訳だが
京アニ版ハルヒにおける桑谷夏子というのは俺はあまり買っていません。
理由は朝倉さんには桑谷におけるような器用さや、女性的な優しい声の柔らかさというのは必要でないから。
で、シムーンと狼を聞いて「ああ、小清水系が合うのかな」と思ったのだった。
朝倉さんにあるのは存在の儚さ、あくまで表面的に徹した明るさ、そして秘められた鋭い情念です。朝倉さんをやるからには当然『消失』のラストシーンもこなす、というかそこが最大の見せ場なのでそこでこそ十全にパフォーマンスを発揮できなければいけないわけですが、そこで小清水がシムーンで見せた依存心や強烈な弱さの演技というのは強みになると思う。
もっともまだこれはあくまで暫定的な判断で、おそらく探せばもっと合う声優がいる可能性は大いにある。

1クールしかやらないという状況で京アニ版を原作と照応させないアニメ作品単体で見れば桑谷というのも間違った判断ではないと思うけど、やはり原作朝倉さんを徹底的に読み込んでいる者としてはオルタナティブを提示したいわけよ。
朝倉さんの魅力を最大限に表現できる声優とはいったい誰なのか。それを探すことが今後のアニメ視聴における課題。

ゲームにおける主人公とエンディングの意味―『ONE〜輝く季節へ〜』をめぐって―

 発売から十年近くが経過した今になって、『ONE〜輝く季節へ〜』を語ろうとするのは、あるいは遅きに失すぎるのかもしれないし、俺自身がこのゲームをプレイしたのが2005年の末から2006年の初めにかけてからであるということからも、俺が『ONE』をめぐるひとつの時代の経験者としての資格をもちえていないことは明白である。だが、言うまでもなく、優れた作品はあらゆる時空を超越するものであり、遅く訪れた者にこそ語れるものがあるとも信じなければ、われわれは過去の名作に触れることなどはできない。だからこそ、俺はこの極めて特異な作品を語ろうと試みるものだ。

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