形象とか

日常にすり減って、大切なものが剥がれくずれ落ちて、そうして廃墟みたいなのしか残らないような気がして、そうなると、今死んでしまっても何も変わらないように思える。
そうなると、本当にこれは、べびプリの更新のために生きているのだと言ってしまっていい。霙姉さんの言葉だけが生きる活力になって、下北沢の、いままで知らなかった古本屋でみつけたウニベルシタスの『同時代人ベンヤミン』に、ベンヤミンが1933年頃にすでに自殺を考えていたという、1933年というのはナチスが政権をとった年だ、歴史認識に思いをめぐらすと、このあいだ会った女性と、ウテナとハルヒと東方の同人誌を作ろうという話をしていたのだけど、藤原妹紅と上白沢慧音の百合を書きたいねという話になって、慧音は歴史と知識の半獣で、慧音にとっての歴史とはいったいどういうものだろうということを思って、でも最後の一線でどうしても、どうしても、どうしてもどうしても東方にハマることができない、絶対に超えられない、超えたくもない、譲れないラインがあって、ああ俺は心の底から東方にハマりたくないんだ、ということを思う。
ようするに美意識の問題なのだ。ZUNTATAの『生命の風が吹く場所』と、慧音のテーマ『プレインエイジア』を聞き比べて、どちらがより俺になじむかというと、あきらかに、前者なのだ。留保のない東方の肯定がどうしてもできない。なにかが、けっして、許せない。


生きることは、ひとつのエクリチュールで、文体があるから、自分の文体にそぐわないものは受け入れなくていいと思う。
あらゆるひとは、生きることを通じて、自分というテクストを書くのだけど、だから文体は大切なのだ。
表層のスタイルが深層へと遡行する。意味が逆流する。


タイトーシューには一貫した美意識があって、俺が東方よりもダライアス外伝のほうに強く、強くコミットメントするのは、たぶん様式のレベルで、弾幕による表現というものを受け入れられないからだと思う。
あるひとが、エロゲーの立ち絵に一番近い表現というのはロシアのイコンやモザイク画だと言っていて、それにとても納得したことがある。
ピクセルによって構成されるCGにおいて、イデアはどこに宿るかというと、人体の形象に宿るのだ。
たぶんそのあたりに鍵がある。タイトーシューの形象の力はあきらかに飛びぬけている。


生きることは、自分という形象を生きることで、どうしても、自分という形象をやめられなくて、でも、生活によって、いろいろなものが剥がれ落ちてゆくと、形象から霊がどんどん抜けていって、そうやって、人は落ちてゆくのだと思う。
でも、どこへ?


それがわからないから、ふと、電車を待っているときに、線路を覗き込む。すくなくともそこには、わかりやすい死がある。

書くこととは

去年マイミクの尊敬している人に会ったとき、パウル・ツェランが書くことに対してどういう考え方をしているかを教えてもらった。
ツェランによると、書くこととは、返事を待つことなく、誰かに届くかもしれないなんて期待することすらせず、ただ静かに瓶に手紙を入れて海に流すことなのだそうだ。

誰かに届くかもしれないなんてぜんぜん期待できないというのは、はてなダイアリーでバーチャロンやタクティクスオウガの話を書いていて本当に思った。あのときソーシャルブックマークしてきた連中のどれだけが俺の文章を真面目に読んでいたのかまったく疑わしいし、それ以前に思っていることを伝えられない俺の文章力不足が憎いし、そもそも、俺が個人的に思っていることが他の誰かに理解されるなんてありえないことだ。
言葉というのはそれくらい信ずるに足らないものだというのが実感としてある。その信じられなさを、言葉数を削り、文脈を脱臼してさらけ出せば、後期ツェランの鉱物みたいな詩になるのかもしれない。
いくら理論をつくしても、思いは伝わらない。理論は大切だけど、思いを伝えるためにはもっと別の何かが必要だ。その何かがあってこそ、理論によって、批評によって思いを伝えることができるのだろう。
考えているなにごとかを書き記すための言葉というもの自体に、真正面からアプローチすれば、その不可思議な何かにアプローチできるかもしれないという夢想から、詩を読む。詩は文体の極限の芸術だ。文体は文章にとってとても重要なことで、優れた文体によってこそ、大切な何かを伝えることができると、ベンヤミンを読んで本当に思う。批評においても文体を軽視することは許されない、むしろ、文体こそ批評においてもっとも大切なものだと言うことすらできるだろうとは、アシュタサポテを読み返して本当に思う。


“新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)と題されたクレーの絵がある。
それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。
その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。
歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。
彼は顔を過去の方に向けている。
私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストロフ)だけを見るのだ。
その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。
きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。
ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。
この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。
私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。”
(ベンヤミン『歴史の概念について』浅井健一郎訳)

だから、バーチャロンや松野泰己について俺が思っていることを書くためには、あらゆることが足りないのだ。
批評によって永遠に到達することができれば、この醜い生にもなにがしかの価値があるのだと信じることができる。

力がほしい。

書くこととは

書くことが切り離すことなら、書かなければ生きていけないたぐいの人は、書くことによって己を世界に切り売りして生きながらえているのかもしれない。それは自分の質量の大半を占める燃料を燃やしてつくして身軽になることによって、地表に戻ることなく宇宙を周り続けられる衛星軌道高度に到達しようとするロケットに似ている。

引用祭り

せつなくて死にそう。
けっきょく俺みたいな信仰や恋愛の物語しか、フィクションしか、萌えしか信じられないような人間にはきっとこの世で生きていい資格なんてないんだ。
それでも俺が生きていられるのはフィクションが真実だという確信があるから。表象がすべてなんだ。それがきっと百合を読むということの意味だ。

人の書いたものを読んでる。切り刻もうとおもってる。言葉のお仕事はしているようでしていないから、私、最近おもうのは、自分は本当に、つまらない文章を書くようになったな。昔自分の書いたものは、読み返すとそれなりに良くて、それは読む人にはストレスの塊でしかないけれど、あのころ書くことは切り離すことだっていう確信があったから、なんていうか、潔い。電車の中でふと考えたら、それは泣きそうなくらいに悲しいことで、どうも、素直なようで素直じゃない。簡単にらくに生きることを始めてしまったら、それはイージネスをある程度受け入れることで、それは当然のようにとてもらくだし健全だけれど、どこかふわふわと、気持ちよくない軽さが気持ち悪い感触でまとわりつく。”
http://d.hatena.ne.jp/ooolaf/20080130/p1


そう。書くことは切り離すことなんだ。ローカルに書き溜めた日記や断片がいっぱいで、でもそれを公開する気にはなれない、ということはやはり不健康な気がする。mixiで日記をつけはじめてから、ローカル日記の速度が格段に落ちたけど、それでもたまには自分ひとりだけ読めばいいという文章が自分の中から出てくるし、twitterをはじめてもmixiの日記を更新するのをやめようとは思わない。ああ今RAYFORCE RUBBING BEATのINTO DARKNESSが流れてきた。この曲好きすぎる。構成がコンセプトアルバムでプログレ感があるし。ここから先の数曲の流れは本当にすごい。イージネスを受け入れたいまの自分には、かつての目に入るものすべてを切り裂きたくなるような衝迫がない。それはいいことなのかわるいことなのか。「慣れてゆくのね、自分でもわかる」(セイラ・マス)。生きてゆくということは慣れるということ?時間の風化作用は人の精神にも効くのだろうか。
生きてゆくということは、気持ち悪いことなのかもしれない。夏エヴァ。

歴史の検証とは、たんに客観的事実の確定にとどまらず、現在の問題に関わってくることは言うまでもありません。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)の名言もあります。イスラエル/パレスチナにおける歴史研究は、「ユダヤ人だけの純粋な国家を創る」というシオニズム運動が、正史で語られるような美しい開拓民の物語に回収されるものなのか、あるいは必然的に先住民への弾圧なしには成り立ちえない、本質的に人種差別的で暴力的なものなのか、という鮮明な対立をなします。正史の立場では、イスラエルは世界中から迫害を受けていたユダヤ人を受け入れ続けている最も人道主義の進んでいる国家ですが、建国時における起源の暴力を直視するパペ氏の立場では、シオニズムはいつの時代であれ容認し難い人種差別であり、「エスニック・クレンジング」は現在も続いているということになります。
http://palestine-heiwa.org/doc/2007/pappe.html


世界史を少しずつ勉強している。むかし代々木のゲーセンで一緒にバーチャロンフォースをやっていたが今はもう連絡がつかない、東大の医学部にいったという友人からもらった、古い分厚い世界史の本を、毎日朝食後に一時間程度読む。頭痛や鬱の調子が悪くて頭が働かないときでも、流し読みして文章を目に入力し、最後までいったらもう一回最初から読み直す、そんなことを三周ほど続けていれば、ダメージの受けた脳でもなんとか記憶にこびりつくらしい。
少しずつ歴史の全体像がわかってくると、以前はあまり興味がなかった地域に興味がわいてくる。とくに東地中海、西アジアのあたりだ。さまざまな民族や宗教や文化がいれかわりたちかわりし混交してゆくさまは、現代の領域の確定された世界地図にくらべて、とても魅力的に見える。宗教や国のカラーといったものにあまり厳格にこだわらない日本人の気質が私にもあらわれているのだろうか?
歴史という観点から見ると、頑迷な西洋の一神教の行いは、ひどく底の浅いもののように映ってしまう。だけど一方で、貧しい読書量ながらも西洋の近代文学に傾倒している自分も確かにいる。近代という怪物に噛みつかれた人間にひどく感情移入してしまう。そして近代文学の影にちらつくのは、ユダヤ人の影だ。シュトゥルム・ウント・ドランクのハイネ、初期近代哲学のスピノザから、現代ユダヤ文学まで。
ディアスポラとホロコーストという悲劇の主人公としてのユダヤ人、パレスティナへの卑劣な侵略者としてのユダヤ人、どちらが真実なのか?

リルケ『ドゥイノの悲歌』を読んでいたら、まるでハルヒの朝倉さんと長門さんのことを歌っているようだ、というくだりに出会った。

“けれども もしも憧れに堪えぬなら お前は愛する女たちを歌うがいい 彼女たちの
 讃えられた感動は まだ決して十分に不滅なものとなってはいないのだ
 あの――お前はほとんど妬ましくさえ思うだろう――捨てられた女たち。満たされた女よりも
 はるかに多くの愛を持っているとお前が認めた女たちお前は
 くりかえし新たに 企て及ぶべきもない賛美の歌をうたいはじめるがいい”
“結局 彼等はもはやこの私たちを必要とはしていないのだ あの早く逝った者たちは。
 彼等はこの世の習わしからおだやかに離れていく ちょうどひとが
 母親の乳房から静かに離れて成長していくように。けれども私たち あのように偉大な
 神秘を必要とし しばしば悲しみのなかから
 至福な進歩をなしとげる――私たちは死者なしでいることができようか?”
(ドゥイノの悲歌 第一の悲歌)

Baby Princess

ヤバイ。最高。特に吹雪さんの一言一言が胸にくる。人気出そうなキャラだけどな!
公野櫻子先生は本当にすごいなあ。小説版ストパニ2巻はやく読んでしまおう。

http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=78
あの姉妹は母親が複数いるのではないかという話は俺も考えてた。ロジャー・ゼラズニィのアンバーシリーズで、異母兄弟が多いアンバーの王族の王位継承権が母親によって大部分決定されるという話を読んで以来、異母兄弟ネタにハマったからだった(http://beoline.nobody.jp/ambertree.html)。上のリンク先では母親を二人としているが、二人に限定する必然性はなくもっと多いと考えてもいいと思う。母親が違う兄弟姉妹というのはじつに萌える。力関係のかけひき。