きづきあきらについて
![]() | ヨイコノミライ 1 完全版 (1) (2006/07/28) きづき あきら 商品詳細を見る |
この作家は近親相姦や同性愛、オタクサークルなど、題材のセンセーショナルなことがとりあげられることが多いのだが、実際のところ、そのような傾向とおなじくらい、ほとんど純情なまでに人と人との恋をはっきりとした意識をもって描いている。そして、そのどちらもが吐き棄てたくなるような俗悪さにもつながりうるだろう。しかし、正中線から微細にずらしたようなキャラクターの身体にセクシャリティを感じても、その性の描写がいったいどのような高みへと向けられているのかという問いを、短編集の、過剰なまでに太かった頃の描線にぶつけてみれば、この作家の声がもう少し聞き取れるようになるかもしれない。そう思ったなら、もう少しみんなこの作品『ヨイコノミライ』を、あるいは短編集シリーズを、素直な気持ちで受け止めなおしてみてください。このさい決然といっておく、俺はきづきあきらという作家が大好きだ。
中村九郎「神様の悪魔か少年」
![]() | 神様の悪魔か少年 (Style-F) 中村 九郎 (2007/09) 富士見書房 この商品の詳細を見る |
この人はディティールに凝り過ぎる人で、それは『樹海人魚』などではイメージでリリカル分とリニアにつながっていてとても美しいのだけど、この作品の場合は社会派風題材の装いをしていて、あとがきに書いてあったとおり過剰なリリカルは悪童の青春という領域に凝縮されているので、少し戸惑うかもしれない。だけどその先にあるのはやっぱり、身を引き裂かれるようなどうしようもないような、人の想いというものへの憧憬で、飛び立つような筆致がそれを青空へと導くんだ。そしてそうであるなら、社会というものへの少年の忸怩も真実さを帯びることができるのだろう。
天才。
ゲームとストーリー
狭義のゲームというものには本来ストーリーは関係がない。ゲームとは一定の障害を与えてプレイヤーにそれをクリアさせるものであって物語メディアではないからだ。
しかしゲームが依拠しているマテリアルの付随物(ボードゲームならボードに描いてある絵やルールブックに書いてあるバックストーリー、コンピュータゲームならグラフィックやテキスト表示など)によって、広い意味でのストーリーを語ることはできる。そしてそのようなストーリーと、狭義のゲームが同じタイトルにパッケージングされてリリースされたとき、ストーリーを語るゲームが出現する。
そしてゲームというものを抽象的なルールそのものではなくタイトルによって個体識別するとき、同じ一つのゲームタイトルに狭義のゲームとストーリーという異質が同居しているという事態が生じる。
レイストームのゲームシステムだけを抜き出して自機や敵機のグラフィックを単純な三角四角の図形に置き換えても、狭義のゲームとしての面白さは変わらないだろう。しかしそれはすでにレイストームではない。レイストームのユーザーはグラフィックや演出や背景といった広義のストーリー要素と、抽象的なゲームルールの両者の綜合としてレイストームというタイトルを認識しているからだ。
ゆえに抽象的なゲームルールの次元ではなく、リリースされたタイトルという次元でゲームを語るとき、ゲームルールとストーリーとを厳格に峻別することはできない。それらは同じ一つのゲームタイトルのなかで不可分に融合していて、どちらを切り離してもそのゲームタイトルをそれ自身たらしめているものが欠落してしまうからだ。ここにゲームを定義することの困難さの根源がある。ストーリーから切り離して、狭義のゲームルールだけを扱おうとすることは、それ自体が非常に難しいことなのである。
しかしゲームが依拠しているマテリアルの付随物(ボードゲームならボードに描いてある絵やルールブックに書いてあるバックストーリー、コンピュータゲームならグラフィックやテキスト表示など)によって、広い意味でのストーリーを語ることはできる。そしてそのようなストーリーと、狭義のゲームが同じタイトルにパッケージングされてリリースされたとき、ストーリーを語るゲームが出現する。
そしてゲームというものを抽象的なルールそのものではなくタイトルによって個体識別するとき、同じ一つのゲームタイトルに狭義のゲームとストーリーという異質が同居しているという事態が生じる。
レイストームのゲームシステムだけを抜き出して自機や敵機のグラフィックを単純な三角四角の図形に置き換えても、狭義のゲームとしての面白さは変わらないだろう。しかしそれはすでにレイストームではない。レイストームのユーザーはグラフィックや演出や背景といった広義のストーリー要素と、抽象的なゲームルールの両者の綜合としてレイストームというタイトルを認識しているからだ。
ゆえに抽象的なゲームルールの次元ではなく、リリースされたタイトルという次元でゲームを語るとき、ゲームルールとストーリーとを厳格に峻別することはできない。それらは同じ一つのゲームタイトルのなかで不可分に融合していて、どちらを切り離してもそのゲームタイトルをそれ自身たらしめているものが欠落してしまうからだ。ここにゲームを定義することの困難さの根源がある。ストーリーから切り離して、狭義のゲームルールだけを扱おうとすることは、それ自体が非常に難しいことなのである。
無題
ロボットは人の思いで動く。Ζガンダムは人の命を吸って動くのだ。そういう象徴作用が人型の機械という表象にはある。
俺が学生時代、バーチャロンに費やした時間は、フェイ・イェンが吸収した。彼女はロボットであり、対戦ゲームのプレイヤーキャラクターであり、同時に自我持つ人形だ。多義性を体現するカトキデザイン。今でも俺はオラタンの設定資料集のフェイ・イェンのページを見るたび、俺のオラタンの時間たちがよみがえってくるのを感じる。時間は失われていない。
生きているだけでどんどんと時間が失われていく、という感覚がある。そんなとき、失われていっているのはどんな時間だ?生きるための時間。しかしそれらの時間でさえも、やがてあとで、失われていなかったのだと確認するような時がくるかもしれない。しかし、思い出せなかった時間は、それは失われてしまったということなのだ。記憶と時間の領域にすまうキャラクターは、そうして死んでゆく。
俺がけっして好きだったキャラクターたちを忘れまいと決意しているのは、そのためなのだ。でないと、キャラクターたちがこの世に生まれてきた意味が、永遠に失われてしまう。それはきっととても寂しいことだ。
キャラクター、この謎めいた不在は、どこにもいない、おそらくは作者にも読者にも、誰の頭の中にも。キャラクターはどこかもっと遠い彼岸にいて、誰にも手が伸ばせないのだ。それをわたしたちのもとに留めておくためには、わたしたちが彼らをけっして忘れないこと、それだけがただひとつの道だ。
俺が学生時代、バーチャロンに費やした時間は、フェイ・イェンが吸収した。彼女はロボットであり、対戦ゲームのプレイヤーキャラクターであり、同時に自我持つ人形だ。多義性を体現するカトキデザイン。今でも俺はオラタンの設定資料集のフェイ・イェンのページを見るたび、俺のオラタンの時間たちがよみがえってくるのを感じる。時間は失われていない。
生きているだけでどんどんと時間が失われていく、という感覚がある。そんなとき、失われていっているのはどんな時間だ?生きるための時間。しかしそれらの時間でさえも、やがてあとで、失われていなかったのだと確認するような時がくるかもしれない。しかし、思い出せなかった時間は、それは失われてしまったということなのだ。記憶と時間の領域にすまうキャラクターは、そうして死んでゆく。
俺がけっして好きだったキャラクターたちを忘れまいと決意しているのは、そのためなのだ。でないと、キャラクターたちがこの世に生まれてきた意味が、永遠に失われてしまう。それはきっととても寂しいことだ。
キャラクター、この謎めいた不在は、どこにもいない、おそらくは作者にも読者にも、誰の頭の中にも。キャラクターはどこかもっと遠い彼岸にいて、誰にも手が伸ばせないのだ。それをわたしたちのもとに留めておくためには、わたしたちが彼らをけっして忘れないこと、それだけがただひとつの道だ。
センチメンタル中毒
グレンラガンではニア姫の出てきた2部。石川ゲッターでは早乙女研究所の地下で早乙女博士と幽霊みたいなゴールとブライが対話するシーン。精神と世界と時間がむすびつくような錯覚。そういった場面が好きだ。
トップをねらえ2の5話のラルクのように、センチメンタリズムの自家薬籠中に陥るのは、心地いい。つまるところナルシシズムで、あまりよくないことだ。破滅主義、デカダンス。
それでも、そこに接触があれば、救われるような気がする。だからディックが好き。
俺がなぜ東方にあまりひかれないのかということを考えてみようと思ったが、あれこれ理屈をこねまわしても、センチメンタリズムがたりないという以上の理由をみつけられなかった。タイトーシューにあってZUNにないものだ。女の子にはセンチメンタルなんて感情はない、でも、感情をどうこうする物言い自体がセンチメンタリズムに満ち溢れていると思う。一つの美意識なのだ。
たとえば(シューティングではないが)シムーン。あの飛行機は軍事兵器であると同時に信仰の対象であり、搭乗者のシヴュラは兵士であると同時に信仰の担い手、巫女である。さまざまな観念を統合するための象徴として、シムーンとシヴュラたちは存在する。ここで目指されているのは収斂であり、秩序だ。
いっぽうで東方は拡散と混淆を本懐とする。東方の弾幕はゲーム性であると同時に画面の彩りである。プレイヤーを殺すための攻撃と、画面を美しく装飾するための弾の図形的配置が概念的に収斂されておらず、両者があいまいなままで同じ弾幕という現象に併存している。東方のデザインコンセプトと一番縁のない言葉が「機能美」であって、それはあの過剰なネーミングセンス(「魂魄妖夢」とか「四季映姫・ヤマザナドゥ」とか、バックグラウンドをかなり露骨に匂わせつつ俗悪さを回避している、それ自体は稀有なバランス感覚だと思う)や、けったいな服飾デザイン(なんで月の兎がブレザーなんだ?)などにも端的に現れている。装飾過多。
メカニックを主役とした伝統的なシューティングゲームは、金属、無機物といった世界観の構成要素から、必然的に退廃のイメージが導かれる。その極北がタイトーシューだ。
対照的に、東方の舞台である幻想郷は楽園の名を掲げている。裏設定はいざ知らず、少なくともその表面的な描写からは、暗さ、ネガティブさは徹底的に排除されている。それが悲劇の主役である西行寺幽々子や藤原妹紅であっても、会話シーンにおいてその秘められたシリアスさが前面に押し出されることはない。彼女らの戦いはあくまでもスペルカードルールという縛りの中での遊びであって、東方の世界からは真剣さが巧妙に排除されている。
地球最後の希望を担った戦闘機が敵弾一発で蒸発してしまうような冷淡さを良しとするのとは、対極的な価値観がここにはある。東方ではストーリーやキャラクターの性格といったさまざまなものが各個の弾幕にパッケージングされている、言い換えれば個々の敵弾はそれ自体が世界観の構成要素として高機能化しており、普通のシューティングのような単純な破壊力としての意味からは大きく逸脱している。
そのような世界は、それはそれで美しくはあるのだろう。でも、何か本気で踏み込む気になれないのは、俺が現在よりも過去を大切にして生きているからだろうか?
センチメンタリズムは悲しみによってものごとの本質に至ろうとする。無常感、切なさ、喪失感、そういったものを抱いて生きようとする。過去にはそばにいた誰かがいない。その誰かをいつまでも思いつづける。そしてそうした態度が無機物への執着を生む。いまそこにある物には、過去の人の思いがこもっているからだ。
そして無機物は生命以前の存在でもある。もののかたちの可塑性と物質の不変性は無窮の時間の変遷を暗示する。生きている機械、成長する無機物という矛盾がゲッターロボならば、石川賢のあらわそうとした時間の広がりの土台である表現の力強さも知れる。
そして、そもそもコンピュータゲームというものが半導体という無機物に依存したメディアならば、それがセンチメンタリズムと近しい表現力をもつものも自然なのだろう。そのような無機物が人の形を志向したときに、キャラクターという一つの不可解が現前するのかもしれない。
まとまらない。
トップをねらえ2の5話のラルクのように、センチメンタリズムの自家薬籠中に陥るのは、心地いい。つまるところナルシシズムで、あまりよくないことだ。破滅主義、デカダンス。
それでも、そこに接触があれば、救われるような気がする。だからディックが好き。
でも、ドナの手の感触は、ボブの心のなかにとどまり続けた。それだけが残った。この先一生、ドナなしで過ごす長い年月、彼女に会うこともなく、手紙をもらうこともなく、生きているのか幸せなのか、死んだのかどうかさえわからない長い年月のあいだ、この感触は彼のなかに封じこめられ、封印されて、絶対に消え去らなかった。ドナのたった一度の手の感触だけが。
(P.K.ディック『暗闇のスキャナー』)
俺がなぜ東方にあまりひかれないのかということを考えてみようと思ったが、あれこれ理屈をこねまわしても、センチメンタリズムがたりないという以上の理由をみつけられなかった。タイトーシューにあってZUNにないものだ。女の子にはセンチメンタルなんて感情はない、でも、感情をどうこうする物言い自体がセンチメンタリズムに満ち溢れていると思う。一つの美意識なのだ。
たとえば(シューティングではないが)シムーン。あの飛行機は軍事兵器であると同時に信仰の対象であり、搭乗者のシヴュラは兵士であると同時に信仰の担い手、巫女である。さまざまな観念を統合するための象徴として、シムーンとシヴュラたちは存在する。ここで目指されているのは収斂であり、秩序だ。
いっぽうで東方は拡散と混淆を本懐とする。東方の弾幕はゲーム性であると同時に画面の彩りである。プレイヤーを殺すための攻撃と、画面を美しく装飾するための弾の図形的配置が概念的に収斂されておらず、両者があいまいなままで同じ弾幕という現象に併存している。東方のデザインコンセプトと一番縁のない言葉が「機能美」であって、それはあの過剰なネーミングセンス(「魂魄妖夢」とか「四季映姫・ヤマザナドゥ」とか、バックグラウンドをかなり露骨に匂わせつつ俗悪さを回避している、それ自体は稀有なバランス感覚だと思う)や、けったいな服飾デザイン(なんで月の兎がブレザーなんだ?)などにも端的に現れている。装飾過多。
メカニックを主役とした伝統的なシューティングゲームは、金属、無機物といった世界観の構成要素から、必然的に退廃のイメージが導かれる。その極北がタイトーシューだ。
対照的に、東方の舞台である幻想郷は楽園の名を掲げている。裏設定はいざ知らず、少なくともその表面的な描写からは、暗さ、ネガティブさは徹底的に排除されている。それが悲劇の主役である西行寺幽々子や藤原妹紅であっても、会話シーンにおいてその秘められたシリアスさが前面に押し出されることはない。彼女らの戦いはあくまでもスペルカードルールという縛りの中での遊びであって、東方の世界からは真剣さが巧妙に排除されている。
地球最後の希望を担った戦闘機が敵弾一発で蒸発してしまうような冷淡さを良しとするのとは、対極的な価値観がここにはある。東方ではストーリーやキャラクターの性格といったさまざまなものが各個の弾幕にパッケージングされている、言い換えれば個々の敵弾はそれ自体が世界観の構成要素として高機能化しており、普通のシューティングのような単純な破壊力としての意味からは大きく逸脱している。
そのような世界は、それはそれで美しくはあるのだろう。でも、何か本気で踏み込む気になれないのは、俺が現在よりも過去を大切にして生きているからだろうか?
センチメンタリズムは悲しみによってものごとの本質に至ろうとする。無常感、切なさ、喪失感、そういったものを抱いて生きようとする。過去にはそばにいた誰かがいない。その誰かをいつまでも思いつづける。そしてそうした態度が無機物への執着を生む。いまそこにある物には、過去の人の思いがこもっているからだ。
そして無機物は生命以前の存在でもある。もののかたちの可塑性と物質の不変性は無窮の時間の変遷を暗示する。生きている機械、成長する無機物という矛盾がゲッターロボならば、石川賢のあらわそうとした時間の広がりの土台である表現の力強さも知れる。
そして、そもそもコンピュータゲームというものが半導体という無機物に依存したメディアならば、それがセンチメンタリズムと近しい表現力をもつものも自然なのだろう。そのような無機物が人の形を志向したときに、キャラクターという一つの不可解が現前するのかもしれない。
まとまらない。
キャラクターへの愛情について・mixiからコピペ2
俺の嫁というのは所有じゃないんです。
たとえば好きな画家の画集や複製画をいくら買ってもその画家の作品を本当に所有したことにはならないのと同じです。しかも絵の場合には画家が直接描いたオリジナルの作品が存在するので究極的には所有できる可能性があるかもしれませんが、マンガやアニメやゲームに登場する萌えキャラの場合は、オリジナルなんてどこにもいないんです。
マンガの場合はまだいいです。話作ってる人と描いてる人が同じなんですから。話考えるのに付き合う編集さんや絵を描くの手伝うアシスタントさんもいますが、二次元メディアのうちでは一人の作家の頭の中に集中してるほうです。
ゲームの場合は、話作ってる人とキャラデザする人とドット打ったりポリゴンモデル作ったりする人とプログラム書いてキャラ動かしてる人が別です。このうちの誰も、最終的に彼らの努力の集まった結果としてゲーム本編に現れる「キャラ」を所有してなんかいません。でも、俺たちユーザーはその「キャラ」を、一個の、絵と言動と言動から推察できる人格が一揃いして完成された「作品」して受け取ります。
アニメの場合は一番ひどいかもしれません。監督と脚本家とキャラデザとコンテ切る人と作画する人と作画監督と色指定する人と実際色塗る人と1コマ1コマ撮影する人と撮ったコマつなげて動画にする人が全部別です。ですが、最終的にフィルムに現れる「キャラ」は一人です。
「キャラ」は、非常に流動的で、つかみがたい存在なのです。この世の誰一人として、「キャラ」を本質的に所有することなんかできません。
なら、「俺の嫁」発言にはどのような意味があるのでしょうか?
たとえば2ちゃんねるにおいてしばしば用例として見受けられるのは、
「この後一時間書き込みなかったら○○は俺の嫁」
というような書き込みです。この発言は、しかし、常に否定されることを期待しています。誰も、あるキャラクターを嫁に迎えることなんかできないのです。でもそれを分かったうえで、あるキャラを「俺の嫁」にしたいという欲求を叫ばずにはいられないという過剰な愛が、このような矛盾した書き込みとして現れます。
たしかに、ゲームやマンガのような二次元メディアは、たくさんの人々の努力の結果として成立します。その努力を軽視し、最初からなかったように振舞うことは決して許されないことです。しかし、それでも、彼らの描いた「キャラクター」は、読者やプレイヤーがそのキャラを受容する段階で、常に製作者たちが想定していなかった理解の仕方や、過剰な思い入れを受け入れてしまいます。そしてそれは、キャラクターを受け入れる読者の頭の中にしか存在しません。でもだからといって、読者がそのキャラを所有しているわけではありません。キャラクターは、ただ読者のその思い入れを受け入れはしますが、決して誰か一人のところに留まることはありません。それでも、だからこそ、キャラクターに対する半ば一方的な愛を、キャラクター本人への、ひいてはそのキャラを創り出した人々への、感謝として、キャラクターへの愛情は叫ばれます。
「俺の嫁」という表現は、だから「こいつは俺だけのもの」という意味なんかではないのです。決して俺のものにはなってくれないけど、それでも、俺はこいつを嫁にしたいくらい愛してるよ、俺はこいつがこの世に存在してくれて嬉しかったよ、という感謝の念として、「俺の嫁」という発言はなされるのです。
たとえば好きな画家の画集や複製画をいくら買ってもその画家の作品を本当に所有したことにはならないのと同じです。しかも絵の場合には画家が直接描いたオリジナルの作品が存在するので究極的には所有できる可能性があるかもしれませんが、マンガやアニメやゲームに登場する萌えキャラの場合は、オリジナルなんてどこにもいないんです。
マンガの場合はまだいいです。話作ってる人と描いてる人が同じなんですから。話考えるのに付き合う編集さんや絵を描くの手伝うアシスタントさんもいますが、二次元メディアのうちでは一人の作家の頭の中に集中してるほうです。
ゲームの場合は、話作ってる人とキャラデザする人とドット打ったりポリゴンモデル作ったりする人とプログラム書いてキャラ動かしてる人が別です。このうちの誰も、最終的に彼らの努力の集まった結果としてゲーム本編に現れる「キャラ」を所有してなんかいません。でも、俺たちユーザーはその「キャラ」を、一個の、絵と言動と言動から推察できる人格が一揃いして完成された「作品」して受け取ります。
アニメの場合は一番ひどいかもしれません。監督と脚本家とキャラデザとコンテ切る人と作画する人と作画監督と色指定する人と実際色塗る人と1コマ1コマ撮影する人と撮ったコマつなげて動画にする人が全部別です。ですが、最終的にフィルムに現れる「キャラ」は一人です。
「キャラ」は、非常に流動的で、つかみがたい存在なのです。この世の誰一人として、「キャラ」を本質的に所有することなんかできません。
なら、「俺の嫁」発言にはどのような意味があるのでしょうか?
たとえば2ちゃんねるにおいてしばしば用例として見受けられるのは、
「この後一時間書き込みなかったら○○は俺の嫁」
というような書き込みです。この発言は、しかし、常に否定されることを期待しています。誰も、あるキャラクターを嫁に迎えることなんかできないのです。でもそれを分かったうえで、あるキャラを「俺の嫁」にしたいという欲求を叫ばずにはいられないという過剰な愛が、このような矛盾した書き込みとして現れます。
たしかに、ゲームやマンガのような二次元メディアは、たくさんの人々の努力の結果として成立します。その努力を軽視し、最初からなかったように振舞うことは決して許されないことです。しかし、それでも、彼らの描いた「キャラクター」は、読者やプレイヤーがそのキャラを受容する段階で、常に製作者たちが想定していなかった理解の仕方や、過剰な思い入れを受け入れてしまいます。そしてそれは、キャラクターを受け入れる読者の頭の中にしか存在しません。でもだからといって、読者がそのキャラを所有しているわけではありません。キャラクターは、ただ読者のその思い入れを受け入れはしますが、決して誰か一人のところに留まることはありません。それでも、だからこそ、キャラクターに対する半ば一方的な愛を、キャラクター本人への、ひいてはそのキャラを創り出した人々への、感謝として、キャラクターへの愛情は叫ばれます。
「俺の嫁」という表現は、だから「こいつは俺だけのもの」という意味なんかではないのです。決して俺のものにはなってくれないけど、それでも、俺はこいつを嫁にしたいくらい愛してるよ、俺はこいつがこの世に存在してくれて嬉しかったよ、という感謝の念として、「俺の嫁」という発言はなされるのです。
キャラクターへの愛情について・mixiからコピペ1
最近よく、そもそもなぜ人は単なる虚構にすぎないフィクションのキャラクターに感情移入したり、好きになったり嫌いになったりすることができるのか、ということを考えます。いろいろな論理があると思いますが、一つにはやはり、フィクションに登場するキャラクターのことを、心のどこかで、自立した意思をもつリアルな「人間」として認識しているからなのだと思います。そうでなければ感情移入なんて不可能だからです。もちろんキャラクターは現実には存在しない、虚構にすぎないというゆるがせない現実もあります、でも、物語のなかで意思をもつ人間として描かれている以上、たとえどんなに非現実的なストーリーやシチュエーションのなかであっても、人はどうしてもそこに「人間」の姿を見てしまうのだと思うんです。だから、しょせんフィクションじゃん、といってかんたんに思考停止してしまうような物言いは、キャラクターに人間の影を見た受け手自身をも否定してしまうものですし、そういうような考え方に従っていると、自分の欲求を処理するための範囲でだけ感情移入して、そのキャラクターが人間として秘めているさまざまなことを見ようとしない、ひどく自分勝手な態度になってしまうのかもしれません。
しょせんはフィクションにすぎない、でも、人はそのフィクションのキャラクターのなかに人間を見出してしまう。そうなったらもう、キャラクターを自分勝手に扱うことも、かんたんに切り捨てて忘れてしまうことも、してはいけないのだと思います。
でも一方で、人はキャラクターと触れあったり、話し合ったりすることができません。彼らはただ書かれているだけです。だから、人がキャラクターに抱く感情はどうしても、一方通行的なものになってしまいます。そんなような状況下で、自分勝手に扱うのはいけないだとか言うこと自体が、もしかしたらおこがましいのかもしれません。私たちが昇華することでキャラクターがむくわれるというのも、思い返せば、あまり適当な言葉ではなかったです。
でも、こちらからキャラクターに対する真摯さを忘れてしまえば、なんというか、私たちがそのキャラクターの存在を知ったことの意味そのものが無に帰してしまうように思えます。(うまく表現できない…)
キャラクターに対してどういうふうな態度でいればいいのかというのは、たぶんけっして答えが出ない問題なのだと思います。一時期は、一種の信仰なのだとかいう言葉も自分のなかで使ってましたが、今ではそれもよくないように思えます。
フィクションでありながら人間である、という矛盾したありようが、私たちとキャラクターとの間の乗り越えがたい距離をつくっているのかもしれません。
そしてそういう距離には、たしかに、むくわれるとかむくわれない、という言葉は通用しないのかな、と思いました。
しょせんはフィクションにすぎない、でも、人はそのフィクションのキャラクターのなかに人間を見出してしまう。そうなったらもう、キャラクターを自分勝手に扱うことも、かんたんに切り捨てて忘れてしまうことも、してはいけないのだと思います。
でも一方で、人はキャラクターと触れあったり、話し合ったりすることができません。彼らはただ書かれているだけです。だから、人がキャラクターに抱く感情はどうしても、一方通行的なものになってしまいます。そんなような状況下で、自分勝手に扱うのはいけないだとか言うこと自体が、もしかしたらおこがましいのかもしれません。私たちが昇華することでキャラクターがむくわれるというのも、思い返せば、あまり適当な言葉ではなかったです。
でも、こちらからキャラクターに対する真摯さを忘れてしまえば、なんというか、私たちがそのキャラクターの存在を知ったことの意味そのものが無に帰してしまうように思えます。(うまく表現できない…)
キャラクターに対してどういうふうな態度でいればいいのかというのは、たぶんけっして答えが出ない問題なのだと思います。一時期は、一種の信仰なのだとかいう言葉も自分のなかで使ってましたが、今ではそれもよくないように思えます。
フィクションでありながら人間である、という矛盾したありようが、私たちとキャラクターとの間の乗り越えがたい距離をつくっているのかもしれません。
そしてそういう距離には、たしかに、むくわれるとかむくわれない、という言葉は通用しないのかな、と思いました。
ひとつの仮説
もし、個々の萌え要素を表す図像的表現が、記号と呼べるまでに結晶化されているのなら、そしてそれらの記号の組み合わせによってキャラクターというものが成立するのなら――記号の組み合わせによって成立するキャラクターとは、すでにそれ自体で一つの文字、言葉なのではないか?
文章の意味がそれを形成する文字の美醜によっては左右されないということに同意するのなら、あるキャラクターを単なる記号の組み合わせだと主張することは、キャラクター自体の価値に対しなんら決定的な意味を持ち得ない。記号の組み合わせ方こそが記号表現の本質であり可能性だからだ。
かといって、萌え絵には絵画的な価値体系による判断が一切通用しない、というわけではない。記号的に抽象化されてはいるが、それは依然として絵である。なによりも、キャラクターの総体的な表現を成立させるためのもっとも重要で根本的な位置にある記号とは「人体」であり、今日までの絵画の歴史が示しているとおり、どのような簡略化やディフォルメにも対抗しうる強力なポテンシャルを、人体の形象は秘めているからだ。
つまるところ、高度に様式化された記号体系をもつ萌え絵とは、絵と象形文字の中間物であり、絵であると同時に言葉なのだ。記号の読解を支える背景的な知識は、端的な表現自体には集約不可能な、強力な間テクスト性を与える。市場的でさえある(萌えメディアはマスコミに高度に依存しているのだから、実際それは市場的なのだが)無節操で雑然とした萌え記号の流通、氾濫の一方で、明確な美意識に従って構成された、萌えキャラという名の発話行為が行われる。そしてそのような記号による美の追求が、厳密にかつ徹底的に行われた場合、それはときに詩的ですらあるだろう。
(マンガにおける人体のディフォルメの意味合いについては、ギャグ王に連載されていた4コママンガ、三笠山出月『うめぼしの謎 完全版』P154の二つ目の作品が参考になるかもしれない)
文章の意味がそれを形成する文字の美醜によっては左右されないということに同意するのなら、あるキャラクターを単なる記号の組み合わせだと主張することは、キャラクター自体の価値に対しなんら決定的な意味を持ち得ない。記号の組み合わせ方こそが記号表現の本質であり可能性だからだ。
かといって、萌え絵には絵画的な価値体系による判断が一切通用しない、というわけではない。記号的に抽象化されてはいるが、それは依然として絵である。なによりも、キャラクターの総体的な表現を成立させるためのもっとも重要で根本的な位置にある記号とは「人体」であり、今日までの絵画の歴史が示しているとおり、どのような簡略化やディフォルメにも対抗しうる強力なポテンシャルを、人体の形象は秘めているからだ。
つまるところ、高度に様式化された記号体系をもつ萌え絵とは、絵と象形文字の中間物であり、絵であると同時に言葉なのだ。記号の読解を支える背景的な知識は、端的な表現自体には集約不可能な、強力な間テクスト性を与える。市場的でさえある(萌えメディアはマスコミに高度に依存しているのだから、実際それは市場的なのだが)無節操で雑然とした萌え記号の流通、氾濫の一方で、明確な美意識に従って構成された、萌えキャラという名の発話行為が行われる。そしてそのような記号による美の追求が、厳密にかつ徹底的に行われた場合、それはときに詩的ですらあるだろう。
(マンガにおける人体のディフォルメの意味合いについては、ギャグ王に連載されていた4コママンガ、三笠山出月『うめぼしの謎 完全版』P154の二つ目の作品が参考になるかもしれない)
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