引用祭り

せつなくて死にそう。
けっきょく俺みたいな信仰や恋愛の物語しか、フィクションしか、萌えしか信じられないような人間にはきっとこの世で生きていい資格なんてないんだ。
それでも俺が生きていられるのはフィクションが真実だという確信があるから。表象がすべてなんだ。それがきっと百合を読むということの意味だ。

人の書いたものを読んでる。切り刻もうとおもってる。言葉のお仕事はしているようでしていないから、私、最近おもうのは、自分は本当に、つまらない文章を書くようになったな。昔自分の書いたものは、読み返すとそれなりに良くて、それは読む人にはストレスの塊でしかないけれど、あのころ書くことは切り離すことだっていう確信があったから、なんていうか、潔い。電車の中でふと考えたら、それは泣きそうなくらいに悲しいことで、どうも、素直なようで素直じゃない。簡単にらくに生きることを始めてしまったら、それはイージネスをある程度受け入れることで、それは当然のようにとてもらくだし健全だけれど、どこかふわふわと、気持ちよくない軽さが気持ち悪い感触でまとわりつく。”
http://d.hatena.ne.jp/ooolaf/20080130/p1


そう。書くことは切り離すことなんだ。ローカルに書き溜めた日記や断片がいっぱいで、でもそれを公開する気にはなれない、ということはやはり不健康な気がする。mixiで日記をつけはじめてから、ローカル日記の速度が格段に落ちたけど、それでもたまには自分ひとりだけ読めばいいという文章が自分の中から出てくるし、twitterをはじめてもmixiの日記を更新するのをやめようとは思わない。ああ今RAYFORCE RUBBING BEATのINTO DARKNESSが流れてきた。この曲好きすぎる。構成がコンセプトアルバムでプログレ感があるし。ここから先の数曲の流れは本当にすごい。イージネスを受け入れたいまの自分には、かつての目に入るものすべてを切り裂きたくなるような衝迫がない。それはいいことなのかわるいことなのか。「慣れてゆくのね、自分でもわかる」(セイラ・マス)。生きてゆくということは慣れるということ?時間の風化作用は人の精神にも効くのだろうか。
生きてゆくということは、気持ち悪いことなのかもしれない。夏エヴァ。

歴史の検証とは、たんに客観的事実の確定にとどまらず、現在の問題に関わってくることは言うまでもありません。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)の名言もあります。イスラエル/パレスチナにおける歴史研究は、「ユダヤ人だけの純粋な国家を創る」というシオニズム運動が、正史で語られるような美しい開拓民の物語に回収されるものなのか、あるいは必然的に先住民への弾圧なしには成り立ちえない、本質的に人種差別的で暴力的なものなのか、という鮮明な対立をなします。正史の立場では、イスラエルは世界中から迫害を受けていたユダヤ人を受け入れ続けている最も人道主義の進んでいる国家ですが、建国時における起源の暴力を直視するパペ氏の立場では、シオニズムはいつの時代であれ容認し難い人種差別であり、「エスニック・クレンジング」は現在も続いているということになります。
http://palestine-heiwa.org/doc/2007/pappe.html


世界史を少しずつ勉強している。むかし代々木のゲーセンで一緒にバーチャロンフォースをやっていたが今はもう連絡がつかない、東大の医学部にいったという友人からもらった、古い分厚い世界史の本を、毎日朝食後に一時間程度読む。頭痛や鬱の調子が悪くて頭が働かないときでも、流し読みして文章を目に入力し、最後までいったらもう一回最初から読み直す、そんなことを三周ほど続けていれば、ダメージの受けた脳でもなんとか記憶にこびりつくらしい。
少しずつ歴史の全体像がわかってくると、以前はあまり興味がなかった地域に興味がわいてくる。とくに東地中海、西アジアのあたりだ。さまざまな民族や宗教や文化がいれかわりたちかわりし混交してゆくさまは、現代の領域の確定された世界地図にくらべて、とても魅力的に見える。宗教や国のカラーといったものにあまり厳格にこだわらない日本人の気質が私にもあらわれているのだろうか?
歴史という観点から見ると、頑迷な西洋の一神教の行いは、ひどく底の浅いもののように映ってしまう。だけど一方で、貧しい読書量ながらも西洋の近代文学に傾倒している自分も確かにいる。近代という怪物に噛みつかれた人間にひどく感情移入してしまう。そして近代文学の影にちらつくのは、ユダヤ人の影だ。シュトゥルム・ウント・ドランクのハイネ、初期近代哲学のスピノザから、現代ユダヤ文学まで。
ディアスポラとホロコーストという悲劇の主人公としてのユダヤ人、パレスティナへの卑劣な侵略者としてのユダヤ人、どちらが真実なのか?

リルケ『ドゥイノの悲歌』を読んでいたら、まるでハルヒの朝倉さんと長門さんのことを歌っているようだ、というくだりに出会った。

“けれども もしも憧れに堪えぬなら お前は愛する女たちを歌うがいい 彼女たちの
 讃えられた感動は まだ決して十分に不滅なものとなってはいないのだ
 あの――お前はほとんど妬ましくさえ思うだろう――捨てられた女たち。満たされた女よりも
 はるかに多くの愛を持っているとお前が認めた女たちお前は
 くりかえし新たに 企て及ぶべきもない賛美の歌をうたいはじめるがいい”
“結局 彼等はもはやこの私たちを必要とはしていないのだ あの早く逝った者たちは。
 彼等はこの世の習わしからおだやかに離れていく ちょうどひとが
 母親の乳房から静かに離れて成長していくように。けれども私たち あのように偉大な
 神秘を必要とし しばしば悲しみのなかから
 至福な進歩をなしとげる――私たちは死者なしでいることができようか?”
(ドゥイノの悲歌 第一の悲歌)

涼宮ハルヒの憂鬱 朝倉×長門SS 題:『冬の残響する思い』

『冬の残響する思い』

 ふたりが高校に入る前のある冬、日がようやく沈んだ頃、朝倉は長門で遊んでいた。頬をつねったり、髪をいじったり、眼鏡をはずしたりかけたり。長門は髪が短いので、髪型はあまりいじれないのが、朝倉には残念だった。あの長門さんの部屋なので当たり前なのだけれど、長門さんの部屋はぜんぜん一人の人間が生活しているという感じがなくて、そんな部屋で長門さんを生々しくさわさわぐにぐにといじるのは少し場違いかもしれない、と朝倉は思って、それが可笑しかった。
 そのうちにオーブンがチンッと鳴り、クッキーが焼けた。長門の部屋のキッチンの、自分しか使わないオーブンを、熱に注意して開けるとき、朝倉は(ああ、わたしは長門さんを独占しているんだ)と思ったりする、傲慢。
 そんな傲慢も朝倉は楽しんだ。
「長門さん、クッキー焼けたよ」
 クッキーを紙ナプキンに包んで、テーブルの前に座る長門のもとまで持ってゆき、いかにも長門の部屋においてあるような味もそっけもない白いだけのプレートに新しい紙ナプキンを敷いて、クッキーを並べる。はじめの一個を置いたそばから早速つまもうとした長門を、朝倉は「めっ」としかる。
「行儀よくしなきゃだめよ」
 長門は、ほんの、ほんの少しだけ、(いまは)朝倉にしかわからないくらい少しだけ、小首をかしげた。行儀という概念がよくわからないらしい。それに長門は食い意地が張っている。
「行儀よくしなきゃだめよ」朝倉はもう一度言った。
「どうして」
「理屈はいいの。とにかく、行儀よくしなきゃだめなの」
 気まぐれで、今日の朝倉は、長門と話すとき、意識してあまり理屈っぽくならないようにしてみた。言葉数を減らすようにしてみた。その意図が長門に通じているかどうかはわからない。でも朝倉はそうした。そのほうが楽しかったから。
「どうして」
 長門は繰り返したずねる。意地を張ったようで、かわいい、と朝倉は思った。
「長門さん……」
「どうして」
 朝倉は意地を張る長門さんはかわいいと思ったけれど、それでもその意地にはやっぱりちょっと困ってしまい、クッキーを並べるためにテーブルに目をやっていたので顔を上げると、その隙に長門はすばやく朝倉の口にクッキーをさし入れた。
「ぐっ…ん…」
「おいしい?」
 少しのあいだ呼吸ができなくなった。朝倉がようやくクッキーを噛み砕いて飲み込むと、長門は繰り返したずねる。
「おいしかった?」
「うん…わたしの作ったクッキー、長門さんに食べさせられて、おいしかった」
「もっと食べて」
 長門はクッキーをさし出した。朝倉はちょっと悩んで、それをあーんと口をあけて長門の手から食べた。繰り返し繰り返し、そうやって、長門がさし出すクッキーを朝倉はその手から食べていったので、長門の指に朝倉の唾液がすこし付いた。そうして、プレートの上のクッキーは全部なくなってしまった。長門さんに食べてもらうために作ったのに、わたしが全部食べてしまった。嘘。ほんとうはまだキッチンの敷いたタオルの上に置かれたオーブンプレートの上にすこし残ってる。でも、長門さんにクッキーを全部食べさせられてしまった、と思うのが心地よかったので、朝倉はそう思った。
 そのあと、朝倉が自分の部屋から持ってきた、駅から少し離れたところにあるちいさな雑貨屋でみつけたアンティークのティーセットで紅茶をいれ、ふたりでクッキーを食べた。長門さんのおやつや夜食にするために焼いたのに、一回で食べきってしまった。でも朝倉は満足だった。
 だって、長門さんと一緒の時間をわたしは食べることができたから。でもまた長門さんのためにおやつを用意しなきゃ。コンビニで冬限定のチョコレートでも買ってこようと思って、このマンションからコンビニへの道の途中に冬の花をガーデニングしてある家の前を通ることを思って、この冬の時間がすぐに過ぎてしまうことを思って、そこまで連想して、朝倉は長門の指を食んでもう一度その指に唾をつけた。ふたりの体温が少しでもお互いに残ることを願って。でも、朝倉は自分と長門に与えられた三年間の猶予を、短いとも長いとも思わなかった。ふたりだけの大切な時間は、きっと永遠になるから、長さなんて関係ないと、朝倉は信じていた。
 それでも、やっぱり、ちょっと不安になって。それが表情に出てしまったらしく、長門は少しだけ、ほんとうにほんの少しだけやさしい目になってくれたので、それだけで朝倉は心が暖かくなった。
 ふたりはそのまましばらくそうやって過ごして、夜も更けてから、朝倉はコンビニに出かけた。この暖かさがあれば、冬の寒さなんていくらでも耐えられるから。
 道を歩いているさなか、以前長門に借りた本の一節を、朝倉は思い返していた。それは朝倉にとって数少ない、有機生命体の残した好ましい言葉だった:
“永遠とはしかし、時間の静止ではないのだ。
 永遠なものを思い浮かべるときに、何かわれわれの気持を圧迫するものがある。それは、永遠というもののなかに時間を経験しなければならないという、われわれにとっては不可解な是認の仕方である。そこから当然結果として生じる、あるがままでのわれわれ自身の是認である。”
(フランツ・カフカ)

(了)

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Baby Princess

ヤバイ。最高。特に吹雪さんの一言一言が胸にくる。人気出そうなキャラだけどな!
公野櫻子先生は本当にすごいなあ。小説版ストパニ2巻はやく読んでしまおう。

http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=78
あの姉妹は母親が複数いるのではないかという話は俺も考えてた。ロジャー・ゼラズニィのアンバーシリーズで、異母兄弟が多いアンバーの王族の王位継承権が母親によって大部分決定されるという話を読んで以来、異母兄弟ネタにハマったからだった(http://beoline.nobody.jp/ambertree.html)。上のリンク先では母親を二人としているが、二人に限定する必然性はなくもっと多いと考えてもいいと思う。母親が違う兄弟姉妹というのはじつに萌える。力関係のかけひき。

涼宮ハルヒの憂鬱 朝倉×長門SS 題:『人体の形象』

 長門有希の部屋のキッチンで、朝倉涼子は料理をしていた。大根をかつら剥きに。この部屋の主はテーブルの前に正座し、壁を見つめたまま動かない。しばらくの間、その空間には朝倉の包丁のシャリシャリという音だけが響いており、他には何の音もしなかった。
 唐突に長門が口を開く。
「あなたの行動の意味が理解できない」
 朝倉は手を休めずに答える。
「わたしの、どの行動?」
「わたしたちはヒトと呼ばれる有機生命体と同じ構造の肉体を持っているが、彼らのように栄養を摂取する必要はない」
 すると、朝倉はくるりと振り向いて、言った。ふわりとなびく髪が長門の視界の隅に映る。
「あら。長門さんは、私の料理が嫌いなの?」
 しばらくの無言のあと、長門は口を開く。
「そうは言っていない」
 朝倉は、包丁をまな板の上に置き、しとしとという擬音が似合うようなゆったりとした様子で長門に歩み寄って、そのまま長門の頬を両手に包み込んだ。
「長門さん」
 そのまま見つめる。
「わたしたちが、ヒトの肉体を模倣しているのは、どういう意味があると思う?」
 長門は答えない。それはインターフェースにとっては自明だからで、自明なことを聞く理由がわからなかったからだ。
 そして朝倉には長門の考えていることがわかった。それは通じ合う感覚ではない。だから朝倉は言った。
「いいえ、与えられた意味じゃない。それはインターフェースとして本質的ではない。
 重要なのは、わたしたちがそれにどういう意味を見出すかよ。なぜわたしたちはヒトのかたちをしているのか。対人コンタクト端末としての最低限の必要からは明らかに過剰な機能が、わたしたちには与えられている。長門さん、あなたはそれを知っているはずよ」
 長門は答えない。長門はいつも必要なことしか口にしない。三年後のことなども、朝倉には言わなくていい。目の前にいる彼女には、自分からそのことを言うべきではない。そう思っていた。
 でも朝倉は違った。朝倉はつねに過剰だった。少なくとも、朝倉は自分がインターフェースとして過剰であることを意識し、常にその本質に忠実であるように在ろうとしていた。
 だから自分は長門を好きなのか?朝倉は自問する。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、自分は長門が好きだ、どうしようもなく、抱きしめたいという、この感覚だけは、たしかに朝倉自身のものだった。だから朝倉は自分に正直に生きることに決めていた。自分の、インターフェースとしての過剰さが、長門が好きだという感情を生んでいるのか、そんなことはどうだっていいことだ。重要なのは、わたしは長門さんを愛しているという、ただそれだけだ。たとえ長門自身の手によって消されることになっても。
 いつもと同じように、そのことに思い当たると、考えがゆきづまって、どうしようもなくなってしまったので、朝倉は長門を抱きしめた。
 そのときの朝倉の肌の感覚と、その日の朝倉の料理の味が、長門にはいつまでも忘れることができなかった。

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01/24 14:22 少し改訂・解題追加

解題:
なぜTFEI端末が恋愛できる必要があるのか、ということを考えていました。進化しなければならないから?違います。自律進化を求めているのはあくまでも情報統合思念体自体であって端末にすぎないインターフェースではありません。なのにインターフェースに、自立した、人間に近い、時によって変化しうる感情が与えられているのなら、それは人間を模倣するということ自体になにがしかの意味があるからなのだろうと考えました。スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』における人間模倣体に近いアプローチとして、俺はTFEI端末を考えています。

ネタが思いつかない

せっかくtwitterからのアクセスが急増してるのでもうちょっと更新を増やそうかと思ったけど特にネタが思いつかない。困ったもんだ。ところで古来より(それこそテキストサイトの時代から)伝えられている、サイト管理者がやってはいけないことの一つに「ネタがないことを更新のネタにする」というものがあるのだが、百件も記事載せないうちからそのネタやってるうちのブログはどうか。いずれにせよhatena id:matakimika氏にtwitterで「ストーリーがないアブストラクトなエントリは読む気しない」みたいなこと言われたので、もっとカジュアルに更新しようと思う。つってもmixi日記もあるしtwitterもはじめてしまったのでウェイト配分が難しいが。いずれにせよもっとテキトーに更新することにしようと思うのだぜ。

ゲームにおける主人公とエンディングの意味―『ONE〜輝く季節へ〜』をめぐって―

 発売から十年近くが経過した今になって、『ONE〜輝く季節へ〜』を語ろうとするのは、あるいは遅きに失すぎるのかもしれないし、俺自身がこのゲームをプレイしたのが2005年の末から2006年の初めにかけてからであるということからも、俺が『ONE』をめぐるひとつの時代の経験者としての資格をもちえていないことは明白である。だが、言うまでもなく、優れた作品はあらゆる時空を超越するものであり、遅く訪れた者にこそ語れるものがあるとも信じなければ、われわれは過去の名作に触れることなどはできない。だからこそ、俺はこの極めて特異な作品を語ろうと試みるものだ。

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シムーン

 あまりかたっくるしくして、更新できなくなるのもあれなので、もう少し文体をゆるめようと思った。

 シムーンを見終わって思ったのは、この物語は俺にとってはまず何よりもドミヌーラの救済のお話なのだなあということだった。

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