涼宮ハルヒの憂鬱 朝倉×長門SS 題:『心のかたち、人のかたち』(『人体の形象』rev.2)

以前に書いたバージョンが自分的にあんまり納得いってないので書き直しました。ただの書き直しでテーマは同じなので何を考えて書いたか知りたいかたはこちらのあとがきをご参照ください。




 長門有希の部屋のキッチンで、朝倉涼子は料理をしていた。大根をかつら剥きに。この部屋の主はこたつに正座し、壁をじっと見つめたまま動かない。しばらくの間、その部屋には朝倉の包丁のシャリシャリという音だけが響いて、他には何の音もしなかった。
 唐突に長門が口を開く。
「あなたの行動の意味が理解できない」
 大根の皮を剥く手を休めずに、朝倉は答えた。
「わたしの、どの行動?」
「わたしたちはヒトと呼ばれる有機生命体と同じ構造の肉体を持っているが、彼らのように栄養を摂取する必要はない」
 すると、朝倉は包丁を握ったまま、くるりと振り向いて拗ねたように言ってみた。ふわりとなびく髪が長門の視界の隅に映る。
「あら。長門さんは、私の料理が嫌いなの?」
 しばらくの無言のあと、長門は口を開く。
「そうは言っていない」
 朝倉は、包丁をまな板の上に置き、しとしとという擬音が似合うようなゆったりとした様子で長門に歩み寄って、そのまま長門の頬をその両手に包み込んだ。
「長門さん」
 そのまま見つめる。
「わたしたちが、ヒトの肉体を模倣しているのは、どういう意味があると思う?」
 長門は答えない。それはインターフェースにとっては自明だからで、自明なことを聞く理由がわからなかったから。
 そして朝倉には長門の考えていることがわかった。でもそれは通じ合う感覚ではないのだ。だから朝倉は言った。
「いいえ、与えられた意味じゃない。それはインターフェースとして本質的ではない。
 重要なのは、わたしたちがそれにどういう意味を見出すかよ。なぜわたしたちはヒトのかたちをしているのか。対人コンタクト端末としての最低限の必要からは明らかに過剰な機能が、わたしたちには与えられている。長門さん、あなたはそれを知っているはずよ」
 長門は答えない。長門はいつも必要なことしか口にしない。三年後のことなども、朝倉には言わなくていい。目の前にいる彼女には、自分からそのことを言うべきではない。そう思っていた。
 でも朝倉は違った。朝倉はつねに過剰だった。少なくとも、朝倉は自分がインターフェースとして過剰であることを意識し、常にその本質に忠実であるように在ろうとしていた。
 だから自分は長門を好きなのか?朝倉は自問する。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも、自分は長門が好きだ、どうしようもなく、抱きしめたいという、この感覚だけは、たしかに朝倉自身のものだった。だから朝倉は自分に正直に生きることに決めていた。自分の、インターフェースとしての過剰さが、長門が好きだという感情を生んでいるのか、そんなことはどうだっていいことだ。重要なのは、わたしは長門さんを愛しているという、ただそれだけだ。たとえ長門自身の手によって消されることになっても。消されることになっても?
 いつもと同じように、そのことに思い当たると、考えがゆきづまって、どうしようもなくなってしまった。
 自分の頬をその両手で包んだまま黙り込んでしまった朝倉を、長門は見つめ返す。朝倉の手はやわらかくてしっとりとしていると長門は思ったのだけど、でもそんな思いつきは長門の表情を変えることはないのだ。その目はあいかわらず無機質で、でも、朝倉をまっすぐ見つめていた。そこにはたしかに長門の意思があった。長門はまっすぐに目を朝倉に向け、そこから朝倉は一つにしてすべての思い、大事な大事な思いを受け取った。
 やがて朝倉は、わたしはこれから長門さんに手ずから消されるのだ、ということに思いいたり、少し興奮して、少し切なくなる。いろいろな思いがあふれかえって、耐え切れなくなる。そうした思いが表に出てしまう。だめ、抑えきれない。突然、朝倉は長門を抱きしめた。ふたりの体が接触する音が部屋に響く。
 でもそれはそれほど突然でもなかった。だって、ふたりは見つめあっていて、ふたりともお互いから視線を外すことができなかったのだから。でも、朝倉は長門を見つめながら、自分の思いに沈んでいて、その思いが抑えきれなくなって長門を抱きしめたので、それは朝倉からすればわれながら自分勝手なのだけれど、長門のほうがどう思ってるかなんて、そのときの朝倉にはわからないことだった。つまり、そのとき朝倉に抱きしめられた、その肌の感覚と、その日の朝倉の料理の味とが、長門にはいつまでも決して忘れることができなかったのだ。
 そうして、長門有希はインターフェースとしての成長をとげてゆき、彼女の心にはけっして消えない、妖艶な不思議な爪跡が遺されることとなった。その見えない爪跡は朝倉涼子によってつけられ、やがて一人の男性をその神秘的な色あいによって魅了するだろう。でも、その爪跡を自分に刻んだのがいったい誰だったのかを、長門はいつまでも、いつまでもいつまでも覚えていた。

昔のmixi日記からコピペ

P2P技術時代の〜は今見返すとyoutubeやニコ動のほうが適切かもしれない。いずれにせよコンテンツの情報化によってその流通・運用コストがきわめて低くなることによる内的・外的な性質の変化のありようを解き明かしたい。
以下2007年01月25日付のmixi日記からコピペ。

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はてなのシステムが醜悪なのはその外部性の否定にある。はてなアンテナ被登録数、被はてなブックマーク数、それらは全てはてな内部からの参照だけを表示している。そのような中で、他のウェブシステムと同じように外に開かれているのは、唯一、古典的な直リンクだけだとすら言えてしまうだろう。
とりわけ、はてなブックマーク被登録数の表示は、個々のブックマークの固有性を漂白し単純な頭数かぞえに還元する。つまりは言説性をほとんど否定してしまうのだ。
振り返れば、俺ニュースが秀逸だったのは、ただ管理者の主観によってのみ収集され、それらを列挙するだけで、システムによって整理されることが *決して* ないというアナログな仕組みそのものにあったのだろう。つまり、俺ニュとはてブの設計思想は、そのパッと見の似通いにもかかわらず、ほぼ対極に位置しているのだ。

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大学に受かったら、「P2P技術時代の芸術作品」という題の論文を書きたいと思っている。
今のところ、ファイル共有ネットワークに対して言うべき言葉は、次の一文で必要十分だし、またこれ以上のことを言うこともできない。つまり――
「完全にデジタルデータ化され共有された芸術作品は、その交換価値を究極的に奪い去られる。」

早く資本論を読まないと。

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ここ数年の間、俺の頭を支配してやまない疑問がある。「一人の人間が一生のあいだに読める文章の数は有限である」という命題だ。


あと、外部からアクセスできないインターネットという存在にも何となく違和感を感じますね。いい悪いというよりも、もったいないという感覚。
例えば、 mixi で書かれている日記は、インターネット上で十数年に渡って進化を続けてきた “あらゆる文章をインデックス化し重み付けて検索可能にするシステム”の外にあるわけです。
全ての人間が生産する文章量のトータルは変化しないため、 SNS 上の文章が増えることは即ちインターネット上の文章が減ることを意味します。もったいないなあ。
http://internet.kill.jp/d/200411.html#d28_t2



この見解は、そもそも一人の人間がインターネット上のすべての文章を閲覧することなどできないという単純な事実を見逃している。
また、ネットのあらゆる文章を「誰が」「どのように」インデックス化し重み付けているのか、という点にも思考を向けるべきだろう。
私見では、ネット上における広すぎる視界をある程度有意な範疇にまで縮小するための自動情報収集システムという点で、mixiのシステムはそこそこ高いレベルに位置している。マイミク日記や参加コミュニティによる情報(コミュニケーション的交通を含む)の取捨選択の効率は、おそらく通常思われているよりもずっと良い。

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全くのところ、わたくしが求めたのは自由などではありませんでした。求めたのは出口にすぎません。右であれ、左であれ、どこに向かってであれ。そのほかの要求は何一つなかったのです。たとえ出口が錯覚にすぎなかろうと、要求がささやかなのですから、見当違いもそれより大きいわけがない。突き進め、ひたすらに突き進め!
(フランツ・カフカ『学会への報告』)

朝倉さん日記(声優とか)

一人の声優について考えるには、全ての声優を知らなければならない、とはしばしば言われるところで、全ての声優、というのは無論誇張表現であるのだが、にしても三桁以上のオーダーで声優のモデルを脳内に保持していないのならば、声優に関しては沈黙するしかないのだ。
(『永遠の現在』所収「声優批評入門」より)


という名言を胸に刻みつつ、なお現状報告として書き留めておくのを許していただきたい。
まだ5,6人程度しか声優モデルを保持していないという無能にもかかわらず、朝倉さんとフェイ・イェンへの愛をまっとうするために俺は高みを目指す。
前置き終了。

true tearsと狼と香辛料を見たら両方とも名塚が出てた。
狼は小清水もいるのでシムーンモードだな。

俺の声優聞き込みにおける課題の一つに
「ハルヒの朝倉涼子における正しいキャスティングを探す」
というのがある訳だが
京アニ版ハルヒにおける桑谷夏子というのは俺はあまり買っていません。
理由は朝倉さんには桑谷におけるような器用さや、女性的な優しい声の柔らかさというのは必要でないから。
で、シムーンと狼を聞いて「ああ、小清水系が合うのかな」と思ったのだった。
朝倉さんにあるのは存在の儚さ、あくまで表面的に徹した明るさ、そして秘められた鋭い情念です。朝倉さんをやるからには当然『消失』のラストシーンもこなす、というかそこが最大の見せ場なのでそこでこそ十全にパフォーマンスを発揮できなければいけないわけですが、そこで小清水がシムーンで見せた依存心や強烈な弱さの演技というのは強みになると思う。
もっともまだこれはあくまで暫定的な判断で、おそらく探せばもっと合う声優がいる可能性は大いにある。

1クールしかやらないという状況で京アニ版を原作と照応させないアニメ作品単体で見れば桑谷というのも間違った判断ではないと思うけど、やはり原作朝倉さんを徹底的に読み込んでいる者としてはオルタナティブを提示したいわけよ。
朝倉さんの魅力を最大限に表現できる声優とはいったい誰なのか。それを探すことが今後のアニメ視聴における課題。

書くこととは

去年マイミクの尊敬している人に会ったとき、パウル・ツェランが書くことに対してどういう考え方をしているかを教えてもらった。
ツェランによると、書くこととは、返事を待つことなく、誰かに届くかもしれないなんて期待することすらせず、ただ静かに瓶に手紙を入れて海に流すことなのだそうだ。

誰かに届くかもしれないなんてぜんぜん期待できないというのは、はてなダイアリーでバーチャロンやタクティクスオウガの話を書いていて本当に思った。あのときソーシャルブックマークしてきた連中のどれだけが俺の文章を真面目に読んでいたのかまったく疑わしいし、それ以前に思っていることを伝えられない俺の文章力不足が憎いし、そもそも、俺が個人的に思っていることが他の誰かに理解されるなんてありえないことだ。
言葉というのはそれくらい信ずるに足らないものだというのが実感としてある。その信じられなさを、言葉数を削り、文脈を脱臼してさらけ出せば、後期ツェランの鉱物みたいな詩になるのかもしれない。
いくら理論をつくしても、思いは伝わらない。理論は大切だけど、思いを伝えるためにはもっと別の何かが必要だ。その何かがあってこそ、理論によって、批評によって思いを伝えることができるのだろう。
考えているなにごとかを書き記すための言葉というもの自体に、真正面からアプローチすれば、その不可思議な何かにアプローチできるかもしれないという夢想から、詩を読む。詩は文体の極限の芸術だ。文体は文章にとってとても重要なことで、優れた文体によってこそ、大切な何かを伝えることができると、ベンヤミンを読んで本当に思う。批評においても文体を軽視することは許されない、むしろ、文体こそ批評においてもっとも大切なものだと言うことすらできるだろうとは、アシュタサポテを読み返して本当に思う。


“新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)と題されたクレーの絵がある。
それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。
その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。
歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。
彼は顔を過去の方に向けている。
私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストロフ)だけを見るのだ。
その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。
きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。
ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。
この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。
私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。”
(ベンヤミン『歴史の概念について』浅井健一郎訳)

だから、バーチャロンや松野泰己について俺が思っていることを書くためには、あらゆることが足りないのだ。
批評によって永遠に到達することができれば、この醜い生にもなにがしかの価値があるのだと信じることができる。

力がほしい。

書くこととは

書くことが切り離すことなら、書かなければ生きていけないたぐいの人は、書くことによって己を世界に切り売りして生きながらえているのかもしれない。それは自分の質量の大半を占める燃料を燃やしてつくして身軽になることによって、地表に戻ることなく宇宙を周り続けられる衛星軌道高度に到達しようとするロケットに似ている。