根源的差異

http://o-to.at.webry.info/200804/article_1.html
オトノチカラというウェブ日記。ここに、大槻ケンヂの「そして人生は続く」についての興味深い示唆があった。
リンク先に歌詞が引用されているので、まずは読んでもらいたい。そして、その後に続く文章も。

読んでいただけただろうか?

さて、われわれはここで一つの思考実験をすることになる。
リンク先にはこうあった。

“これの女優を「折笠愛」「国府田マリ子」に変えてみてごらん!”


ここに、「木之本桜」や「しおり&さおり」を代入したらどうなるだろうか?


これは、われわれが二次元というものをどのように受け止めているかという、認識の様相の問題である。
将来われわれが老いたとき、国府田マリ子と老人ホームで出会うことと、木之元桜と老人ホームで出会うこととを想定したときの、その可能性の決定的な差異。ここにおいて、三次元と二次元との断絶をまざまざと浮き彫りにすることができる。
われわれと二次元とを隔てているのはいったい何か、その答えのひとつがここで与えられる。つまり、時間性であり、時間性に基づく主体性だ(ハイデガー)。
べびプリ日記におけるあさひの「0歳の誕生日」とは、けっして単なる一発ネタに留まるようなものではない。何故ならば、ここにおいて、物語の中で流れる時間、テクストの時間とは何か、という問題があまりにもあからさまに前面に押し出されているからだ。
流れる時間において我と汝が出会うということの意味が、二次元と三次元とでは決定的に違うのだ。


こうした認識に至ったとき、ようやく、われわれはキャラクターの存在論を開始することができるだろう。