小説『象徴と暗黒』
mixi日記に掲載したものを若干加筆しました
『象徴と暗黒』
玉野理佳が小学五年生に上がり、ふと思ったのは、自分の人生がなにか言いあらわしようのない、不確かな混沌さに覆われているということだった。裕福な家庭に生まれ、私立の小学校に通って何不自由なく日々を送っている。二年後の受験のための勉強は大変だけれども、ついてゆくのに苦痛を感じるほどではない。みずからの凡庸さと逸脱とを共に認める勇気を持ち、心の不安を趣味によって発散できるような余裕もあった。進学校独特の、子供らしいかしましさと一種冷淡な無関心さが奇妙に同居した教室の空気のなかで、ささやかな友人をみつけることもできた。
しかし、それにもかかわらず、理佳はいつも心のどこかで、まるでこの世界がまったく無秩序な、因果の混乱したでたらめなものであるという逃れがたい考えに苛まれていた。 それは若さゆえの潔癖さのせいである、ということで、一度理佳は自分自身を納得させようとしてみた事がある。しかし、この考えは、あまりにも理佳の精神の奥深いところに根ざしていた。この、世界の確実さに対する不信感、とでも表現するべきものは、確かに理佳が物心ついたときから、既に深く理佳の精神回路に刻み込まれていた。逆説的になるが、あるいはこの観念こそが、理佳が世界を認識するための最も根本的なルーチンなのかもしれなかった。それぐらい、この観念は、理佳にとって身近なものだった。
しかしだからといって、この観念が理佳にとって心地の良いものだということでは決してない。むしろ理佳が感じていたのは、自分が所属し感じ見ている世界が、まるで自然のあるべき姿から奇形的に歪められたものであるかのような、微細で痛烈な違和感だった。この違和感にはけっして慣れることがなく、たとえどんなことをしていても、いつも理佳の脳裏についてまわり、このことは理佳が人生に向かう態度に対して、あきらめにも似た脱力めいたものを呼び込んでいた。しかし理佳はそんなことはおくびにも出したことがなかった。理佳は、表面上は、平穏に人生を過ごすごく普通の小学五年生の女の子ということで通っていた。
「たとえばさ、空には星があるでしょ?」
「星?」
「そう、星。夜じゃなくても、太陽や月だって星」
クラスメートの愛川奈々は言う。
「それがどうかしたの?」
「星はね、空の他の部分と別の色で光ってるでしょ。あれは自分を主張してるんだよ。宇宙は広くて暗くて、誰も居なくて寂しいから、誰か遠くにいる人に自分の存在をわかってもらうために、あんなに明るく光ってるの」
理佳は学級日誌を書きながら、横目で奈々を一瞥して言った。
「――馬鹿馬鹿しい」
「そうかな?」
「そうよ。星なんてしょせん無機物じゃない。いかにも人間中心主義的でロマンチックな考え方だわ。子供っぽい……」
と答えると、奈々は腰をかがめて横から理佳の顔を覗き込んできた。
「な、何よ?」
「やっぱり理佳ちゃん、かわいいね?」
といって、にっこり笑う。理佳は少し萎縮するようなそぶりで、顔をそむけた。奈々の目と唇をこんなに間近で見ると胸が苦しくなるからだった。
「じゃあ、少し言い方を変えようか」
立ち上がって、手を後ろに組んで背をそらし、古い校舎のタイルの天井の向こうを見上げて、歌うように奈々は言う。
「夜に人間は空を見上げる。そこには一面の暗闇と星明り。そんな映像はね、象徴になるんだよ、理佳ちゃん。現し世の想像力を天上に捧げ、自らのさだめを受け取る。或る星は自己であり、また或る星は他者。そんなふうに、幾億光年の時空の彼方で燃える原子たちの一筋の光のイメージは、人間の認識をいっとき奪い去り、その瞬間の象徴作用のなかで超越の暗示をヒトに託す。それが、星に思いをはせるっていうことの意味」
そういって、奈々は押し黙り、そのまま天井を見上げる、古ぼけた無機のタイルの中を飛び交うちいさな電子に、星のそれと近しい軌道運動をさがそうとするかのように。
そんな奈々を、理佳はそっと見つめつづける。やがて小声で呟いた。
「……奈々の言うことは、いつも抽象的すぎて、よくわからない」
すると、奈々は理佳の方を振り向く。
「ついてこれない?」
理佳のほうからは蛍光灯の逆光で、奈々の表情がよく見えない。
「あたし、理佳ちゃんには一緒についてきてほしいんだけどな」
その言葉は少しだけ、でも胸を締め付けるほどにさびしげだった。理佳は言葉に詰まる。
「それって、どういう――」
「あのね、理佳ちゃん」
奈々は理佳の言葉をさえぎり、言った。
「あたしが突然いなくなっても、びっくりしたり、悲しんだりしないでね。それは、あたしが星の世界に行ったって事だから」
その後、ふたりは途中まで一緒に下校し、川岸の道を歩いて、橋のところで別れた。
夕暮れの中、行き交う車を横目に、理佳は橋を渡り、奈々はその背中にずっとずっと手を振る。
これはいつも思うことだが、理佳は、この橋を渡ることによって、まるで奈々のいる彼岸の清らかな世界から、自分ひとりだけ此岸の混沌の世界へと押し流されてゆくようだ、と感じられた。
奈々と一緒にいる時間だけは、この世から混沌が洗い流されて、こちらを煙に巻くような不安定な奈々の言葉たちが、逆に秩序の清浄な空気で世界を満たしていくようで、心地よかった。
そしてその感覚は、理佳にとって、とても不思議なものだった。
その週末の土曜日、理佳は家で読書などをして過ごした。日曜日は奈々と遊ぶ約束だった。
夕食の後、ベッドに寝転がって考える。
(この間の奈々の言葉は、いったいどういう意味だったんだろう?)
もちろん、奈々が少しばかり意味のつかみがたい事を言うのはいつものことだった。でもそれにしても、あの放課後の奈々の様子は少し変だったような気がする。
奈々がいなくなる。なぜ?その理由が理佳にはわからない。おそらくそれは、奈々にとっては確実な予感めいたものなのだということを、薄々とは感じ取っていた。それを否定することは誰にもできない。もしかしたら本当に、奈々はいなくなってしまうのかもしれない。わたしの前から消えてしまうのかもしれない。
混沌がチリチリと脳を焼く。
だとしたら、どうすればいいのか。それが理佳にはわからなかったし、そのことを聞いてみる勇気もなかった。こちらからそのことを口にしたが最後、奈々の存在はあっというまに雲散霧消して、空へ、星の世界へと飛んでいってしまい、もう決してこちらから追いくことなどできなくなってしまうのかもしれないと思ったからだ。
それだけは避けなければならない。
受験のことを考える。ふたりは一緒の中学に行こうと約束していた。でも、そんなことは、奈々がそれまで一緒にいてくれる、消えないでいてくれるということを何ら保証するものではなかった。そして、受験という具体的で端的なことと、奈々が消えるかもしれないという夢想的で不確実なことを完全に同じ次元で考えている自分に気付いて、ぞっとした。
不確実。もしかしたらそれが、自分がとらわれている当のものなのか?
理佳にとって奈々の言葉は、この世で最も確実なもののように思えた。その表面上のつかみどころのなさにも関わらず、理佳は心のどこか奥の密やかなところで、奈々の言葉をとても、とても深く信頼していた。すがっていたのかもしれない。少なくとも奈々の言葉は、自分が属している世界にくらべれば、理佳にとっては心安らぐものだった。
世界という、何よりも堅固であるはずのものを信じられず、所詮自分と同じ子供にすぎない同級生の、気まぐれな言葉を信じる。何よりもそういった自分の態度こそが、最も理屈に合わない、信頼しがたい、混乱していることのように思えて、理佳はよりいっそう恐ろしくなった。
自分はいったいどこに向かおうとしているのだろうか?
今まで経験したことのないような、見通しの聞かない思考の深い森を歩きながら、理佳は泥沼のような眠りに入った。
愛川奈々は満たされない思いに苦しめられていた。玉野理佳を求めても、それは落ち着くどころか、ますます奈々を飢えで苦しめた。これは友情とか恋とかではない、と奈々は思った。何か別のものだった。それにもかかわらず、どんな友情にも恋にもまして、理佳が欲しくてたまらなかった、そしてその思いはどれだけ理佳と一緒にいてもけっして満たされることがなかった。あるいは恋だったのかもしれないが、少なくとも理佳に対して抱いているそれは、自分の知っている恋とは違っていた。それは、二年前、大好きだった従姉が突然失踪してしまったことに由来しているように思えたが、そうでないようにも思えた。人とのふれあいを病的に求めること。誰かと共にいるときだけ、奈々は明るい少女でいられ、そうでないときは、彼女はまったく、空っぽだった、抜け殻のようだった。
奈々は、普段はすました顔をしている理佳が、時々ふとしたときに、とても退屈そうな顔をしていたり、またあるときは、まるで何も見えていないかのようなうつろな表情をするときがあるのを知っていた。静かに悟性を使ってものごとを考える理佳を、奈々はとても好ましく思っていて、そのような理佳が、こんなにも不思議なことで溢れている世界に対して興味を失っているのを見ると、理佳は、この少女を自分のほうに振り向かせてやりたいという、心身をおそう情熱的な欲望にかられ、そうした心のままに、理佳をからかってみせると、自分がいっとき、究極的に孤独から救われているように感じた。
理佳との待ち合わせ場所の、人通りのある駅から離れた、噴水のある小さな広場で、ベンチに座り、奈々は空を見上げていた。昼間の月が見えて、奈々の精神はそれに奪われた。
天体が昔から好きだった。宇宙の悠久の時間に思いをめぐらすと、たとえば、月の平原のようにひからびた自分の心が、太陽の光を浴びて、不思議な輝きを帯びるように思えた。人知の及ばない星の光が、永遠の暗黒のなかに溶けていく夜空は、神秘的で、どうしようもなく奈々の心をとらえた。何よりも太陽が好きだった。地上にふりそそぐエネルギーの純粋な塊。世界からいっさいの寂しさを打ち払うようだった。
従姉は、失踪する直前、奈々に一つの石を渡していた。わたしの事を思い出したくなったら、それを握り締めて。理佳を待っているあいだ、奈々はずっとその石を握っていた。それは星の石だった。いまは忘れられた、遠い伝承がそれにまつわっていた。
自分はもうすぐ星の世界に行くのだという思いが、突然、奈々の心に去来した。それは自然なことだと思った。理佳にもついてきてほしいと奈々は思ったが、それは適わないことだとも知っていた。自分と理佳は永遠に結ばれないのだ。
「奈々」
「……」
「泣いてたの?」
ベンチにうずくまる奈々を見て、理佳はそばに立った。
「う……ひっく……うう……」
「奈々……」
「理佳ちゃん……さびしい……さびしいよお……」
奈々は理佳にすがりつき、理佳は奈々の頭を抱きしめた。
「どうして……」
と理佳は尋ねたが、何を聞きたいのか自分でもわからず、それに、なぜ尋ねたのか自分でもわからなかった。奈々が泣いていることは自然なことのように思えた。そこで、理佳は奈々の頭を撫でて、あやしてやった。
ひとしきり、誰もいない広場で、理佳は奈々を抱きしめていた。
奈々が落ち着くと、ふたりは歩き出した。
いつものように、本屋やレコード屋で静かに話して、いろんなところを巡り、やがていつもふたりで行く喫茶店に入った。ミルクもシロップも入れないアイスコーヒーに、二本のストローをさしてふたりで飲むと、味覚とは何の関係もない甘さがからだを満たし、キスのようだった、陽光で満たされたメソアメリカの、土の香りのする乾いた風のなかにいるような気がし、熱い空気をともに飲み干しているしているようなヴィジョンがふたりを包んだ。にもかかわらず、そこは宇宙だった、暗黒の空に浮かぶ惑星の大気は閉鎖系ではなく、身を焦がすようなエネルギーを、寒い、寒い真空の空間とやりとりしていた。その暗さと冷たさと光と香りと熱のすべてが、ちいさな小奇麗な店のアイスコーヒーのグラスに凝縮されているようで、そこにふたりの唾液がストローを伝ってわずかながらに注がれて、万象が表されていた。
やがて、日が沈みかけた頃、ふたりはあの橋の上にいた。空からまず蒼白さが、次に茜色が失われ、暗闇と、星々の純粋な光とにとってかわられようとする時刻、理佳と奈々は欄干にもたれかかり、四月の初めのまだ肌寒い夕暮れに、身を寄せ合っていた。夕暮れの混沌が夜の秩序に打ち払われ、そしてそれが明日も、明後日も、ずっと続くのだと、理佳は悟った。
ついに、奈々の消えるときがやってきた。こうして今までたくさんの子供たちが、それぞれの信じる象徴に身をゆだね、穏やかに消えていったのだということを、理佳は知った。それはとても悲しいことだと思った。それを伝えると、奈々は笑って、これは自然なことなのだから、悲しんではいけないと言った、その笑顔は、消滅する流れ星のまばゆさをたたえていた。理佳はそれをとても愛おしく思い、奈々を抱きしめた。時間が、ふたりの認識から去った。
そうしてふと気が付くと、理佳は突然、奈々の体温が消え、夜の凍えるおそろしい空気が自分を包んでいることに気付いた。ひとりぼっちだった、まったくひとりぼっちだった。奈々の立っていた後には石が残されていたので、理佳はそれを躊躇なく橋から川に投げ落とした。
そしてその日を境に、理佳の中の混沌は消え去り、いままで感じたことのない穏やかさが彼女の人生を満たした。それでもときどき理佳は、最後の瞬間の奈々の体温を思い出し、とても寂しい気持ちになることがあった。その憂いは理佳の表情に、老婆になっても、けっして消えない美しさを宿したのだった。
『象徴と暗黒』
玉野理佳が小学五年生に上がり、ふと思ったのは、自分の人生がなにか言いあらわしようのない、不確かな混沌さに覆われているということだった。裕福な家庭に生まれ、私立の小学校に通って何不自由なく日々を送っている。二年後の受験のための勉強は大変だけれども、ついてゆくのに苦痛を感じるほどではない。みずからの凡庸さと逸脱とを共に認める勇気を持ち、心の不安を趣味によって発散できるような余裕もあった。進学校独特の、子供らしいかしましさと一種冷淡な無関心さが奇妙に同居した教室の空気のなかで、ささやかな友人をみつけることもできた。
しかし、それにもかかわらず、理佳はいつも心のどこかで、まるでこの世界がまったく無秩序な、因果の混乱したでたらめなものであるという逃れがたい考えに苛まれていた。 それは若さゆえの潔癖さのせいである、ということで、一度理佳は自分自身を納得させようとしてみた事がある。しかし、この考えは、あまりにも理佳の精神の奥深いところに根ざしていた。この、世界の確実さに対する不信感、とでも表現するべきものは、確かに理佳が物心ついたときから、既に深く理佳の精神回路に刻み込まれていた。逆説的になるが、あるいはこの観念こそが、理佳が世界を認識するための最も根本的なルーチンなのかもしれなかった。それぐらい、この観念は、理佳にとって身近なものだった。
しかしだからといって、この観念が理佳にとって心地の良いものだということでは決してない。むしろ理佳が感じていたのは、自分が所属し感じ見ている世界が、まるで自然のあるべき姿から奇形的に歪められたものであるかのような、微細で痛烈な違和感だった。この違和感にはけっして慣れることがなく、たとえどんなことをしていても、いつも理佳の脳裏についてまわり、このことは理佳が人生に向かう態度に対して、あきらめにも似た脱力めいたものを呼び込んでいた。しかし理佳はそんなことはおくびにも出したことがなかった。理佳は、表面上は、平穏に人生を過ごすごく普通の小学五年生の女の子ということで通っていた。
「たとえばさ、空には星があるでしょ?」
「星?」
「そう、星。夜じゃなくても、太陽や月だって星」
クラスメートの愛川奈々は言う。
「それがどうかしたの?」
「星はね、空の他の部分と別の色で光ってるでしょ。あれは自分を主張してるんだよ。宇宙は広くて暗くて、誰も居なくて寂しいから、誰か遠くにいる人に自分の存在をわかってもらうために、あんなに明るく光ってるの」
理佳は学級日誌を書きながら、横目で奈々を一瞥して言った。
「――馬鹿馬鹿しい」
「そうかな?」
「そうよ。星なんてしょせん無機物じゃない。いかにも人間中心主義的でロマンチックな考え方だわ。子供っぽい……」
と答えると、奈々は腰をかがめて横から理佳の顔を覗き込んできた。
「な、何よ?」
「やっぱり理佳ちゃん、かわいいね?」
といって、にっこり笑う。理佳は少し萎縮するようなそぶりで、顔をそむけた。奈々の目と唇をこんなに間近で見ると胸が苦しくなるからだった。
「じゃあ、少し言い方を変えようか」
立ち上がって、手を後ろに組んで背をそらし、古い校舎のタイルの天井の向こうを見上げて、歌うように奈々は言う。
「夜に人間は空を見上げる。そこには一面の暗闇と星明り。そんな映像はね、象徴になるんだよ、理佳ちゃん。現し世の想像力を天上に捧げ、自らのさだめを受け取る。或る星は自己であり、また或る星は他者。そんなふうに、幾億光年の時空の彼方で燃える原子たちの一筋の光のイメージは、人間の認識をいっとき奪い去り、その瞬間の象徴作用のなかで超越の暗示をヒトに託す。それが、星に思いをはせるっていうことの意味」
そういって、奈々は押し黙り、そのまま天井を見上げる、古ぼけた無機のタイルの中を飛び交うちいさな電子に、星のそれと近しい軌道運動をさがそうとするかのように。
そんな奈々を、理佳はそっと見つめつづける。やがて小声で呟いた。
「……奈々の言うことは、いつも抽象的すぎて、よくわからない」
すると、奈々は理佳の方を振り向く。
「ついてこれない?」
理佳のほうからは蛍光灯の逆光で、奈々の表情がよく見えない。
「あたし、理佳ちゃんには一緒についてきてほしいんだけどな」
その言葉は少しだけ、でも胸を締め付けるほどにさびしげだった。理佳は言葉に詰まる。
「それって、どういう――」
「あのね、理佳ちゃん」
奈々は理佳の言葉をさえぎり、言った。
「あたしが突然いなくなっても、びっくりしたり、悲しんだりしないでね。それは、あたしが星の世界に行ったって事だから」
その後、ふたりは途中まで一緒に下校し、川岸の道を歩いて、橋のところで別れた。
夕暮れの中、行き交う車を横目に、理佳は橋を渡り、奈々はその背中にずっとずっと手を振る。
これはいつも思うことだが、理佳は、この橋を渡ることによって、まるで奈々のいる彼岸の清らかな世界から、自分ひとりだけ此岸の混沌の世界へと押し流されてゆくようだ、と感じられた。
奈々と一緒にいる時間だけは、この世から混沌が洗い流されて、こちらを煙に巻くような不安定な奈々の言葉たちが、逆に秩序の清浄な空気で世界を満たしていくようで、心地よかった。
そしてその感覚は、理佳にとって、とても不思議なものだった。
その週末の土曜日、理佳は家で読書などをして過ごした。日曜日は奈々と遊ぶ約束だった。
夕食の後、ベッドに寝転がって考える。
(この間の奈々の言葉は、いったいどういう意味だったんだろう?)
もちろん、奈々が少しばかり意味のつかみがたい事を言うのはいつものことだった。でもそれにしても、あの放課後の奈々の様子は少し変だったような気がする。
奈々がいなくなる。なぜ?その理由が理佳にはわからない。おそらくそれは、奈々にとっては確実な予感めいたものなのだということを、薄々とは感じ取っていた。それを否定することは誰にもできない。もしかしたら本当に、奈々はいなくなってしまうのかもしれない。わたしの前から消えてしまうのかもしれない。
混沌がチリチリと脳を焼く。
だとしたら、どうすればいいのか。それが理佳にはわからなかったし、そのことを聞いてみる勇気もなかった。こちらからそのことを口にしたが最後、奈々の存在はあっというまに雲散霧消して、空へ、星の世界へと飛んでいってしまい、もう決してこちらから追いくことなどできなくなってしまうのかもしれないと思ったからだ。
それだけは避けなければならない。
受験のことを考える。ふたりは一緒の中学に行こうと約束していた。でも、そんなことは、奈々がそれまで一緒にいてくれる、消えないでいてくれるということを何ら保証するものではなかった。そして、受験という具体的で端的なことと、奈々が消えるかもしれないという夢想的で不確実なことを完全に同じ次元で考えている自分に気付いて、ぞっとした。
不確実。もしかしたらそれが、自分がとらわれている当のものなのか?
理佳にとって奈々の言葉は、この世で最も確実なもののように思えた。その表面上のつかみどころのなさにも関わらず、理佳は心のどこか奥の密やかなところで、奈々の言葉をとても、とても深く信頼していた。すがっていたのかもしれない。少なくとも奈々の言葉は、自分が属している世界にくらべれば、理佳にとっては心安らぐものだった。
世界という、何よりも堅固であるはずのものを信じられず、所詮自分と同じ子供にすぎない同級生の、気まぐれな言葉を信じる。何よりもそういった自分の態度こそが、最も理屈に合わない、信頼しがたい、混乱していることのように思えて、理佳はよりいっそう恐ろしくなった。
自分はいったいどこに向かおうとしているのだろうか?
今まで経験したことのないような、見通しの聞かない思考の深い森を歩きながら、理佳は泥沼のような眠りに入った。
愛川奈々は満たされない思いに苦しめられていた。玉野理佳を求めても、それは落ち着くどころか、ますます奈々を飢えで苦しめた。これは友情とか恋とかではない、と奈々は思った。何か別のものだった。それにもかかわらず、どんな友情にも恋にもまして、理佳が欲しくてたまらなかった、そしてその思いはどれだけ理佳と一緒にいてもけっして満たされることがなかった。あるいは恋だったのかもしれないが、少なくとも理佳に対して抱いているそれは、自分の知っている恋とは違っていた。それは、二年前、大好きだった従姉が突然失踪してしまったことに由来しているように思えたが、そうでないようにも思えた。人とのふれあいを病的に求めること。誰かと共にいるときだけ、奈々は明るい少女でいられ、そうでないときは、彼女はまったく、空っぽだった、抜け殻のようだった。
奈々は、普段はすました顔をしている理佳が、時々ふとしたときに、とても退屈そうな顔をしていたり、またあるときは、まるで何も見えていないかのようなうつろな表情をするときがあるのを知っていた。静かに悟性を使ってものごとを考える理佳を、奈々はとても好ましく思っていて、そのような理佳が、こんなにも不思議なことで溢れている世界に対して興味を失っているのを見ると、理佳は、この少女を自分のほうに振り向かせてやりたいという、心身をおそう情熱的な欲望にかられ、そうした心のままに、理佳をからかってみせると、自分がいっとき、究極的に孤独から救われているように感じた。
理佳との待ち合わせ場所の、人通りのある駅から離れた、噴水のある小さな広場で、ベンチに座り、奈々は空を見上げていた。昼間の月が見えて、奈々の精神はそれに奪われた。
天体が昔から好きだった。宇宙の悠久の時間に思いをめぐらすと、たとえば、月の平原のようにひからびた自分の心が、太陽の光を浴びて、不思議な輝きを帯びるように思えた。人知の及ばない星の光が、永遠の暗黒のなかに溶けていく夜空は、神秘的で、どうしようもなく奈々の心をとらえた。何よりも太陽が好きだった。地上にふりそそぐエネルギーの純粋な塊。世界からいっさいの寂しさを打ち払うようだった。
従姉は、失踪する直前、奈々に一つの石を渡していた。わたしの事を思い出したくなったら、それを握り締めて。理佳を待っているあいだ、奈々はずっとその石を握っていた。それは星の石だった。いまは忘れられた、遠い伝承がそれにまつわっていた。
自分はもうすぐ星の世界に行くのだという思いが、突然、奈々の心に去来した。それは自然なことだと思った。理佳にもついてきてほしいと奈々は思ったが、それは適わないことだとも知っていた。自分と理佳は永遠に結ばれないのだ。
「奈々」
「……」
「泣いてたの?」
ベンチにうずくまる奈々を見て、理佳はそばに立った。
「う……ひっく……うう……」
「奈々……」
「理佳ちゃん……さびしい……さびしいよお……」
奈々は理佳にすがりつき、理佳は奈々の頭を抱きしめた。
「どうして……」
と理佳は尋ねたが、何を聞きたいのか自分でもわからず、それに、なぜ尋ねたのか自分でもわからなかった。奈々が泣いていることは自然なことのように思えた。そこで、理佳は奈々の頭を撫でて、あやしてやった。
ひとしきり、誰もいない広場で、理佳は奈々を抱きしめていた。
奈々が落ち着くと、ふたりは歩き出した。
いつものように、本屋やレコード屋で静かに話して、いろんなところを巡り、やがていつもふたりで行く喫茶店に入った。ミルクもシロップも入れないアイスコーヒーに、二本のストローをさしてふたりで飲むと、味覚とは何の関係もない甘さがからだを満たし、キスのようだった、陽光で満たされたメソアメリカの、土の香りのする乾いた風のなかにいるような気がし、熱い空気をともに飲み干しているしているようなヴィジョンがふたりを包んだ。にもかかわらず、そこは宇宙だった、暗黒の空に浮かぶ惑星の大気は閉鎖系ではなく、身を焦がすようなエネルギーを、寒い、寒い真空の空間とやりとりしていた。その暗さと冷たさと光と香りと熱のすべてが、ちいさな小奇麗な店のアイスコーヒーのグラスに凝縮されているようで、そこにふたりの唾液がストローを伝ってわずかながらに注がれて、万象が表されていた。
やがて、日が沈みかけた頃、ふたりはあの橋の上にいた。空からまず蒼白さが、次に茜色が失われ、暗闇と、星々の純粋な光とにとってかわられようとする時刻、理佳と奈々は欄干にもたれかかり、四月の初めのまだ肌寒い夕暮れに、身を寄せ合っていた。夕暮れの混沌が夜の秩序に打ち払われ、そしてそれが明日も、明後日も、ずっと続くのだと、理佳は悟った。
ついに、奈々の消えるときがやってきた。こうして今までたくさんの子供たちが、それぞれの信じる象徴に身をゆだね、穏やかに消えていったのだということを、理佳は知った。それはとても悲しいことだと思った。それを伝えると、奈々は笑って、これは自然なことなのだから、悲しんではいけないと言った、その笑顔は、消滅する流れ星のまばゆさをたたえていた。理佳はそれをとても愛おしく思い、奈々を抱きしめた。時間が、ふたりの認識から去った。
そうしてふと気が付くと、理佳は突然、奈々の体温が消え、夜の凍えるおそろしい空気が自分を包んでいることに気付いた。ひとりぼっちだった、まったくひとりぼっちだった。奈々の立っていた後には石が残されていたので、理佳はそれを躊躇なく橋から川に投げ落とした。
そしてその日を境に、理佳の中の混沌は消え去り、いままで感じたことのない穏やかさが彼女の人生を満たした。それでもときどき理佳は、最後の瞬間の奈々の体温を思い出し、とても寂しい気持ちになることがあった。その憂いは理佳の表情に、老婆になっても、けっして消えない美しさを宿したのだった。
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ただ単に小学生のレズカップルがひたすらいちゃいちゃする話が書きたかっただけなのになんでこうなったのかマジで謎です
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くまぽんの能力はきっとこういうところにあるんだと思うよ。
うらやましい。