キャラクターへの愛情について・mixiからコピペ1

最近よく、そもそもなぜ人は単なる虚構にすぎないフィクションのキャラクターに感情移入したり、好きになったり嫌いになったりすることができるのか、ということを考えます。いろいろな論理があると思いますが、一つにはやはり、フィクションに登場するキャラクターのことを、心のどこかで、自立した意思をもつリアルな「人間」として認識しているからなのだと思います。そうでなければ感情移入なんて不可能だからです。もちろんキャラクターは現実には存在しない、虚構にすぎないというゆるがせない現実もあります、でも、物語のなかで意思をもつ人間として描かれている以上、たとえどんなに非現実的なストーリーやシチュエーションのなかであっても、人はどうしてもそこに「人間」の姿を見てしまうのだと思うんです。だから、しょせんフィクションじゃん、といってかんたんに思考停止してしまうような物言いは、キャラクターに人間の影を見た受け手自身をも否定してしまうものですし、そういうような考え方に従っていると、自分の欲求を処理するための範囲でだけ感情移入して、そのキャラクターが人間として秘めているさまざまなことを見ようとしない、ひどく自分勝手な態度になってしまうのかもしれません。
しょせんはフィクションにすぎない、でも、人はそのフィクションのキャラクターのなかに人間を見出してしまう。そうなったらもう、キャラクターを自分勝手に扱うことも、かんたんに切り捨てて忘れてしまうことも、してはいけないのだと思います。

でも一方で、人はキャラクターと触れあったり、話し合ったりすることができません。彼らはただ書かれているだけです。だから、人がキャラクターに抱く感情はどうしても、一方通行的なものになってしまいます。そんなような状況下で、自分勝手に扱うのはいけないだとか言うこと自体が、もしかしたらおこがましいのかもしれません。私たちが昇華することでキャラクターがむくわれるというのも、思い返せば、あまり適当な言葉ではなかったです。
でも、こちらからキャラクターに対する真摯さを忘れてしまえば、なんというか、私たちがそのキャラクターの存在を知ったことの意味そのものが無に帰してしまうように思えます。(うまく表現できない…)
キャラクターに対してどういうふうな態度でいればいいのかというのは、たぶんけっして答えが出ない問題なのだと思います。一時期は、一種の信仰なのだとかいう言葉も自分のなかで使ってましたが、今ではそれもよくないように思えます。

フィクションでありながら人間である、という矛盾したありようが、私たちとキャラクターとの間の乗り越えがたい距離をつくっているのかもしれません。
そしてそういう距離には、たしかに、むくわれるとかむくわれない、という言葉は通用しないのかな、と思いました。

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