キャラクターへの愛情について・mixiからコピペ2
俺の嫁というのは所有じゃないんです。
たとえば好きな画家の画集や複製画をいくら買ってもその画家の作品を本当に所有したことにはならないのと同じです。しかも絵の場合には画家が直接描いたオリジナルの作品が存在するので究極的には所有できる可能性があるかもしれませんが、マンガやアニメやゲームに登場する萌えキャラの場合は、オリジナルなんてどこにもいないんです。
マンガの場合はまだいいです。話作ってる人と描いてる人が同じなんですから。話考えるのに付き合う編集さんや絵を描くの手伝うアシスタントさんもいますが、二次元メディアのうちでは一人の作家の頭の中に集中してるほうです。
ゲームの場合は、話作ってる人とキャラデザする人とドット打ったりポリゴンモデル作ったりする人とプログラム書いてキャラ動かしてる人が別です。このうちの誰も、最終的に彼らの努力の集まった結果としてゲーム本編に現れる「キャラ」を所有してなんかいません。でも、俺たちユーザーはその「キャラ」を、一個の、絵と言動と言動から推察できる人格が一揃いして完成された「作品」して受け取ります。
アニメの場合は一番ひどいかもしれません。監督と脚本家とキャラデザとコンテ切る人と作画する人と作画監督と色指定する人と実際色塗る人と1コマ1コマ撮影する人と撮ったコマつなげて動画にする人が全部別です。ですが、最終的にフィルムに現れる「キャラ」は一人です。
「キャラ」は、非常に流動的で、つかみがたい存在なのです。この世の誰一人として、「キャラ」を本質的に所有することなんかできません。
なら、「俺の嫁」発言にはどのような意味があるのでしょうか?
たとえば2ちゃんねるにおいてしばしば用例として見受けられるのは、
「この後一時間書き込みなかったら○○は俺の嫁」
というような書き込みです。この発言は、しかし、常に否定されることを期待しています。誰も、あるキャラクターを嫁に迎えることなんかできないのです。でもそれを分かったうえで、あるキャラを「俺の嫁」にしたいという欲求を叫ばずにはいられないという過剰な愛が、このような矛盾した書き込みとして現れます。
たしかに、ゲームやマンガのような二次元メディアは、たくさんの人々の努力の結果として成立します。その努力を軽視し、最初からなかったように振舞うことは決して許されないことです。しかし、それでも、彼らの描いた「キャラクター」は、読者やプレイヤーがそのキャラを受容する段階で、常に製作者たちが想定していなかった理解の仕方や、過剰な思い入れを受け入れてしまいます。そしてそれは、キャラクターを受け入れる読者の頭の中にしか存在しません。でもだからといって、読者がそのキャラを所有しているわけではありません。キャラクターは、ただ読者のその思い入れを受け入れはしますが、決して誰か一人のところに留まることはありません。それでも、だからこそ、キャラクターに対する半ば一方的な愛を、キャラクター本人への、ひいてはそのキャラを創り出した人々への、感謝として、キャラクターへの愛情は叫ばれます。
「俺の嫁」という表現は、だから「こいつは俺だけのもの」という意味なんかではないのです。決して俺のものにはなってくれないけど、それでも、俺はこいつを嫁にしたいくらい愛してるよ、俺はこいつがこの世に存在してくれて嬉しかったよ、という感謝の念として、「俺の嫁」という発言はなされるのです。
たとえば好きな画家の画集や複製画をいくら買ってもその画家の作品を本当に所有したことにはならないのと同じです。しかも絵の場合には画家が直接描いたオリジナルの作品が存在するので究極的には所有できる可能性があるかもしれませんが、マンガやアニメやゲームに登場する萌えキャラの場合は、オリジナルなんてどこにもいないんです。
マンガの場合はまだいいです。話作ってる人と描いてる人が同じなんですから。話考えるのに付き合う編集さんや絵を描くの手伝うアシスタントさんもいますが、二次元メディアのうちでは一人の作家の頭の中に集中してるほうです。
ゲームの場合は、話作ってる人とキャラデザする人とドット打ったりポリゴンモデル作ったりする人とプログラム書いてキャラ動かしてる人が別です。このうちの誰も、最終的に彼らの努力の集まった結果としてゲーム本編に現れる「キャラ」を所有してなんかいません。でも、俺たちユーザーはその「キャラ」を、一個の、絵と言動と言動から推察できる人格が一揃いして完成された「作品」して受け取ります。
アニメの場合は一番ひどいかもしれません。監督と脚本家とキャラデザとコンテ切る人と作画する人と作画監督と色指定する人と実際色塗る人と1コマ1コマ撮影する人と撮ったコマつなげて動画にする人が全部別です。ですが、最終的にフィルムに現れる「キャラ」は一人です。
「キャラ」は、非常に流動的で、つかみがたい存在なのです。この世の誰一人として、「キャラ」を本質的に所有することなんかできません。
なら、「俺の嫁」発言にはどのような意味があるのでしょうか?
たとえば2ちゃんねるにおいてしばしば用例として見受けられるのは、
「この後一時間書き込みなかったら○○は俺の嫁」
というような書き込みです。この発言は、しかし、常に否定されることを期待しています。誰も、あるキャラクターを嫁に迎えることなんかできないのです。でもそれを分かったうえで、あるキャラを「俺の嫁」にしたいという欲求を叫ばずにはいられないという過剰な愛が、このような矛盾した書き込みとして現れます。
たしかに、ゲームやマンガのような二次元メディアは、たくさんの人々の努力の結果として成立します。その努力を軽視し、最初からなかったように振舞うことは決して許されないことです。しかし、それでも、彼らの描いた「キャラクター」は、読者やプレイヤーがそのキャラを受容する段階で、常に製作者たちが想定していなかった理解の仕方や、過剰な思い入れを受け入れてしまいます。そしてそれは、キャラクターを受け入れる読者の頭の中にしか存在しません。でもだからといって、読者がそのキャラを所有しているわけではありません。キャラクターは、ただ読者のその思い入れを受け入れはしますが、決して誰か一人のところに留まることはありません。それでも、だからこそ、キャラクターに対する半ば一方的な愛を、キャラクター本人への、ひいてはそのキャラを創り出した人々への、感謝として、キャラクターへの愛情は叫ばれます。
「俺の嫁」という表現は、だから「こいつは俺だけのもの」という意味なんかではないのです。決して俺のものにはなってくれないけど、それでも、俺はこいつを嫁にしたいくらい愛してるよ、俺はこいつがこの世に存在してくれて嬉しかったよ、という感謝の念として、「俺の嫁」という発言はなされるのです。
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